クリスマスが近づくと、多くのアメリカの家ではクリスマス用の装飾が盛んに行われる。単に玄関ドアに、円形のクリスマスリースをつけるだけでなく、サンタクロースや雪だるまを空気で大きくした、高さ数メートルのオブジェを庭先に置いたり、数百、数千のライトによる光の装飾を庭や木々や家に飾り、かなり派手にクリスマスを演出する。
周りの多くの家々がライトを軒先につけると、自分の家もなにかせねばならないような気にさえなりかねない。夜になると、多くの家でライトアップを始めるので、目を楽しませてくれ、すごい装飾している家はないかな、と買い物の帰り等に遠回りしてみたくなる。
中にはびっくりするような、相当数のライトをつけたド派手な家がある。屋根から壁、窓ドア、木々、植木全てに光の装飾をつけ点滅させたり音楽とシンクロしたり、4、5メートルあるようなサンタや恐竜のオブジェなどが何個もあったりと、見ていて楽しい。日本にもそういう家があるが、アメリカでも土地がある分、スペースを使った豪快な装飾をしている家を見る事ができる。
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海外に住んでいて、私の気がかりな事の一つは日本に住む親の安否である。定期的に電話をしていたとしても、高齢である上、すぐに直接会えないのでいつも心のどこかで元気でやっているかどうか、無事に過ごしていますようにと祈る自分がいる。そういう訳で、日本のニュース、例えば文字ニュースや見出しだけ分かる簡易なニュース等を見る際、火事のニュースで「民家全焼、住人全員死亡」などの見出しが出ればドキッとする。やや恐ろしげにそれをクリックしたり読み進め、自分の親が住む都道府県かどうか、住所、住人の氏名、死傷者の人数などを一気に確認する。そしてそれが同じ県、さらに同じ市町村であれば心臓の鼓動が一気に高まるのが分かり、自分の家族でないことが分かるとふう、と全力疾走した後のような深い息を吐き、安堵する。
台風や地震、洪水などの天災が日本で発生した場合も同様である。しばらく日本の家族と電話連絡していなければなおさら、もしやと思い手に汗が出ることもある。実際被害に遭われた方には残念な気持ちになるが、地球の反対側に住み、すぐ会えないだけに、心配な気持ちはひとしおである。
親が住む市が提供する、天災時に自動で状況をメールで知らせるシステムに登録をしている。そこでリアルタイムに、局地的大雨や、大きな地震等が親が住む付近で発生したと知れば、すぐ電話し、大丈夫か?と安否確認する。言われたほうは、そう毎度毎度電話してくるなと思うかもしれないし、私としても日本におらずすぐ助けに行けるわけではなく、不安は増すばかりで何もしようがないのであるが、結局はパブロフの犬のように、気になるニュース等が入ればすぐ電話をしている。
現在市内で紫外線指数がとても高いとか、屋外作業が危険なほどの猛暑とか、バケツをひっくり返したような猛烈な雨などのニュースを知って、今日は外出しないほうがいいよ、と電話したら、外見りゃ分かるし、TVのニュースでもそう言っているよ、と言われああそりゃ見れば分かるなと、あまり冷やかしの電話や、早朝深夜の電話を控えるようにはなったが。
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海外に長い間住んでいると、外から見る日本というか、日本人の気質をより客観的に見れるようになる。ふとした時に感じるものだが、改めて日本人は他の人種よりかなり柔軟性に富んでいるように思う。まあこれは私自身がそれとなく感じたものであるが、例えば宗教、人種、価値観考え方等に関して、アメリカ人その他の多くの人々は、どちらかと言えば各自の確固たる考えがあり、他人がどう言おうとそうそう信念を変えない。他人にまで己の信念を無理に押し付けるまではしないが、そういうところは結構頑なで、普段の会話でも宗教などの(各自が持つ信念的な)事柄は、争論けんかになりやすいのであまり話題に上らない。
一方日本人は、協調的というか、柔和というか、周りに合わせる能力に優れているところがあるように見え、他人の考えにも割と柔軟に理解を示しやすく、協調しやすい土壌を持っているような気がする。片意地にこれはこうでなければだめだ、と押し通すよりは、そういう考えもあるなあ、と、理解共感を示すだけでなく、時には真似て自分のものにする能力にも長けている気がする。異国文化、異国の習慣、価値観考え方への理解力、適応力が早い気がする。
日本のニュースを見ると、凶悪事件や目を疑うようなモラルにかけた出来事で、日本人の心が荒んできているような気になる時があるが、本質的に島国日本で生きるために周りと協調し、他の人々への共感力、理解力、適応力に優れた背景があると信じている。
しばしばグローバル競争などで、どうやって日本は生き残れるかといった話が出る際、基本的な事ではあるが、根本的に私はこうした日本人がほぼ本質的に持ち、美徳とも言える、他人を親身に理解する能力、共感/同情する能力、いろんな状況にも柔軟に適応する能力の高さと言った事柄をこれからも大事に持っていけば、将来に渡って大きな長所として身を助けることにつながると思う。
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日本とアメリカのそれぞれのTVドラマを見ていて、人の言動行動について、その違いを感じる時が時々ある。日本のTVドラマだと、「元気出しなさいよ!」とはっぱをかけようと妻が夫の肩や頭などをパーンと叩く。友人や同僚が「頑張れ、大丈夫だ!」等と相手の肩を結構な強さでバンバンッと叩く。久々に日本のTVドラマを見る機会があり、こういうシーンを見て私はびっくりしてしまった。それは日本の芸人のツッコミのように、悪意がなくとも家族友人、仕事仲間等で叩く、はたく、といったある種のコミュニケーションとしてのアクションで、ちらほら出てくる。
アメリカのTVドラマでは対犯罪者や正当防衛としてのアクションはよくあるが、悪い事をしていない無実の者に対してパーンと軽々しく叩くことはコミュニケーションとしてあまりしないし、もしすれば視聴者から苦情が出るかもしれない。また日本のTVドラマではよく叫ぶ。本当によく叫ぶ。しかも突然である。例えば周りが普通の声で会話している最中に突然発狂に似た叫び声を上げる、というシーンは多い(台詞はいろいろあるが、うるさーい!、早くしろ!、そうだ!、こらー!、ああー!などと、人の会話を大声というある種暴力で有無を言わさず遮断するかのように使われる)。アメリカのTVドラマでも叫ぶシーンはあるが、そういう意図でこれほど頻繁にあるとの記憶はない。
今述べた中にもあったが、「早くしろ!」、や「早く!」と相手を急かすシーンも日本のTVドラマなどで当たり前のように出てくるが、アメリカのではそんなにない。もし日本だと「早くしろ!」と言いそうなところでも、アメリカのTVドラマではそうそう出てこない。悪役が近づいてきて、逃げなければならないシーンがあったとしても、ただ「Run!」 、とか「Go!」程度だ。価値観の違いか、英語の性格の違いか、「早く!」に相当する台詞はそれほど出てこない。また土下座をする。ある日本のTVドラマでは、相手に復讐として土下座をさせる、というのがシナリオとしてあるほどで、土下座というのは今でも本当に日本に根深く残っているなと感じさせられる。アメリカのTVドラマで、土下座をするシーンは今まで見たことがないからだ。
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アメリカで仕事をしていて、日米での会議の違いについて書いてみる。これは個人的経験によるのだが、仕事でアメリカ人が行う会議は短い。端的に終わる。大抵30分から1時間で終わる。それより長い場合もないことはないが、会議は始まる前に既に議論すべき問題点を各自が準備し認識しており、それの解決法を提示する。問題でないことには時間をかけない。そして他の参加者の意見を踏まえ、おおむね理路整然と最短距離かつ単純明快な結論をその場で決める。参加していない者や上司の意見を仰ぐため先送りしたい、等と言うことはあまりなく、即断即決パターンが通常だ。
質問も回答も的確で、だらだらとあまり脱線せず、プロを意識させるような集中した会議になる。だからピンポイントで各個撃破するような流れですっすと進んでいくので、会議時間はおおむね短い。終わる頃にはほぼ全て各問題に対しての解決法が決まる。ゴールが決まれば、実現するための細かな事項は会議の後に各自が詰めて行く。慣れもあるが、この会議のほうが気持ちが良い。
そして彼らは会議の随所にちょっとした笑いを入れる。ほんの些細なジョーク程度でも、その会話に入れようとする。皆も小さな息抜きを欲しがっているのか、たいていすぐ笑う。それは話を脱線させるものではなく、潤滑油のようなもので、意見の食い違いなどによる緊張を適度に緩和してくれる。そして肩の過度な力を抜いた状態で、できうる最善策を出そうとする。話の論点が分からぬまま突進するバッファローではなく、ゴール地点を見定めた上で突進するかのような感じで、適度にリラックスしているだけに場当たり的でもなく詰めも甘くなりにくい。
日本人のみの会議に参加すると、大体上記の事がないので長い。用意周到に準備してきたようでも、会議中にファイルを探して参加者を待たせたり、ポイントの掴みづらい回答だったり、即断即決を避けたいのか、結局この会議で何が決まったのかよく分からず、単なる仲良し会で終わる会議もある。以前岡本という靴下メーカーによる足クサ川柳で、「靴を脱ぎ 長引く会議 終わらせる」というものがあったが、こうした会議で何度もそうしてやろうかと思ったほどだ。
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風邪を引いた時どうするか。日本人なら、水分補給をして、薬を飲んで、よく寝る、などが一般的だが、そういう一般論以外に、アメリカでは別の風邪対処法がある。それはチキンスープを飲む、である。これはどちらかと言えば年配の人が代々親からの言い伝えでやっているものだが、未だにチキンスープを飲む人は多い。また、この記事を書くきっかけにもなったが、以前アメリカのどこかの大学が、風邪を引いた際にチキンスープを飲むことは良い、と科学的に実証したという記事を読んだのを覚えている。
また、塩水を鼻から吸い口から出す、という荒業をするアメリカ人もいる。これは妻と妻の親族でやっている方法で、風邪を引くとコップに塩を水で薄め、片方の鼻の穴を塞ぎ、もう片方の鼻の穴にコップを付け、吸う。刺激が強いのか、たいてい泣く。時に目を真っ赤にし、呼吸を荒立ててまでして、塩水を鼻から吸う。効果のほどは分からないが、風邪を引いたときに炎症が起こりやすい、鼻と口の通じる箇所を洗浄するのは良いかもしれない。なお、ハワイに住んでいた頃は、風邪を引けばビーチに行け、とよく言われた。アメリカの別の州や地域では、もっと別の「治療法」があると思う。
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日本人が風邪を引いた時には、多くの人がマスクをする。しかしアメリカ人はそういう発想自体ないのか、マスクをする人は滅多にいない。昔渡米当初の頃は、風邪を引いた際、日本人的感覚でスーパーにマスクを買いに行ったことがあるが、売っていなかった。それは今もそうで、欲しくてもなかなか売っていないのである。
何店か探し回ってようやくマスクが見つかるが、日本では様々な種類、例えば風邪用、花粉症用、睡眠用、あごの下まで覆うものなど大きさや価格帯がいろいろ選べる一方、私の住む地域では1種類か、あっても2種類しかない。それらは陳列棚の端のほうにたいていあり、在庫も少ない。ほとんど誰も買わないのが見てとれる。
冬などインフルエンザがアメリカでも流行し、学校が休校する日もしばしばあるが、それでもマスクをする人はかなりの少数派だ。ダサイと思っているのか、人にうつさないようにという発想がないのかと思いがちだが、他の人に移さないようにとマスクをする人が多い日本に比べ、アメリカでは移されないように健常な人がマスクをする事はある。医者との問診で、疑いのある病気があると思われたら、一旦席を離れマスクをしてくるアメリカ人医者もいる。今までのところ、アメリカ人がマスクをするのは、工事現場の人や医師程度しか見たことがない印象である。
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しゃがんだ時や、物を取ろうとかがんだ時にパンツが見えてしまうことがある。それはまるで電車の吊革広告のように、見る気はないが目に入ってしまうようなものだが、日本よりもアメリカでのほうがより多く目にする。
しゃがんだ際ズボンで隠し切れず、下着のパンツがかなり出ているアメリカ人女性は多い。日本人のように人の目をそれほど気にしないからなのか、概しておしりが大きいからなのか、中には胸の谷間のようにおしりの割れ目の端がかなり露出している女性も頻繁にいる。気づいていないのか、または気づいていても気にしないのか、お構い無しのアメリカ人女性もいるかのようだ。目のやり場に困り、出てますよ、言うわけにもいかないので私は無視する。
若いアメリカ人女性なら、ローライズなど股上の短いズボンをあえて履き、Tバックが丸見えの女性もいるが、そうではなく普通のズボンを履き、下着だけでなく腰のタトゥーやおしりの割れ目までおおっぴろげに見えている女性もよくいる。私の妻も類に漏れずその類で、食事で椅子に座っている時も尾骶骨あたりでジーンズからはみ出たパンツが当たり前のように出ている。ジッパーを空けたままになっている事を指摘されるのとよく似たものなのか、何度も指摘するとだんだん逆ギレされて「So what!」とか「I know that!」と言い返されるのがオチだ。なので私は気づいても無視するか、Wedgie(パンツを背中上部へ突然持ち上げ、わざとパンツを食い込ませるウェッジーと言ういたずら)をする。
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この状況では英語でこう言う、というようなベストな言い回しを使いこなす、というのは、アメリカで長い間住んでいても未だ完璧ではない気がする。それが使用頻度がやや落ちるものではなおさらだ。例えば、「その塩取って」、と言うにはPass that salt please.とスッと出てくる。たとえ「取って」と日本語で言うからと直訳でTakeやGrabは用いない。頻繁にその言い回しを周りのアメリカ人が使うので、覚える機会が豊富にあったからだと思う。
一方でそれほど頻度が多くない表現は、そうそうスッとベストな表現が出てこない。例えば「靴の泥を落として」だと、Wipe your shoes offだが、周りのアメリカ人がそう言っているのを聞く機会がなかったり、全く知らなかったりすると、日本語の直訳や、自分の英語レベルを駆使し今までの経験に基づき、推測的”新”英語表現(合っているか分からないが多分こういうかも知れぬという自作の英語)で言うことになる。
靴の泥を落とす、と日本語で言うのでDrop the dirtとか、Fall the dirtとか、Delete the dirtとか、ベストの表現を知らないためにかなり苦し紛れの表現で言う場合が多々発生する。それで聞き手が分かってくれれば、とりあえずは合格点であるが、教師のような、こちらの意図を汲んで相当な内容補完作業が瞬時に行える人でない限り、ベストな表現以外では意味はなかなか通じない。
そこで身振り手振りのジェスチャーや、連想ゲームのように単語のみや別の言い回しで何とか伝え、外堀を埋めるような手間をかけてようやく「Oh, you want me to wipe my shoes off!」と分かってくれることも多い。そうして手間暇かけ、また多少の緊張とストレスを感じて掴んだベストな表現は、熱い鉄で頭に刻印されるかのように以降も自分の言葉の範疇に仲間入りする。その刻印の強さは英語本を眺めているだけとは比べ物にならない。私は毎日その積み重ねで、1つまた1つと今でも英語を勉強中である。
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日本のコマーシャルで、同じCMで同じイメージキャラクターがずっと起用されることがある。例えば昔日本にいた頃の古い例だが、赤いきつねと緑のたぬきのカップ麺のコマーシャルでは、武田鉄矢が毎年起用されて出ていた記憶がある。
アメリカでもそれはあてはまる。例えばProgressiveという保険会社のコマーシャルで、真っ白な服を着た女性が様々なバージョンでずっと出続けている。ハンバーガーのWendy'sでは赤毛の女性が、携帯電話会社のAT&Tでは、スーパーバイザーの店頭販売員役の女性が、ピザチェーンのPapa John'sでは、CEOの男性が、いつもそのコマーシャルに出ている。この商品と言えばこの人、という様なトレードマーク的、マスコット的に、同じ人を起用しているコマーシャルがアメリカにもよく見られる。
個人的印象では、同じ人をずっと起用し続けるのが分かる気がする。というのは、単に同じ人の起用では、商品とともにすぐ何のコマーシャルか分かりやすいということであろうが、上記で挙げたCMで出続けている人達は、カリスマというか、人をひきつけるような何かを持っている雰囲気を感じられる。単なるコマーシャルなのだが、何か作業をしてたのを止めて見たり、手を止めたりしてしまうことがあり、あの人が出るあのコマーシャルの続編、新バージョンが流れるとつい見てしまったりする。
そうこう続けていくうち、いつかその品物、例えば携帯電話等が必要となり店に出かけた際、いろいろなブランドやバリエーション、価格帯などでどれを買うか判断するわけだが、あの同じ人を起用し続けているあのコマーシャルのブランドの商品が、より親近感を感じてしまい、他社のものよりも一歩リードした状態で品定めをしているような気になる時がある。同じ人を使い続けるコマーシャルの、魔力を感じる瞬間である。
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前回の続き。そういう日本語読み書き練習を毎日続けた。ダレたり嫌がるのを極力防ぎ、習慣づけるため、朝起きてすぐ、手作りの日本語練習問題数枚を横についてやらせた。先に他の用事をさせ、昼以降に日本語勉強時間を取ると、どうも気持ちの切り替えがうまくできないというか、やる気が出ない事が多かったので、半ば強制的に、起床、歯磨きトイレの後すぐに日本語の時間、というやり方をずっとやってきた。
親としても大変である。日本に住んでりゃこんなことしなくても済んだのに、というのは未だに感じるし、教材の作成、問題のネタの確保も毎日となればこちらも大変だ。古典漢文はさせないが、漢字、読解問題、書き取り問題、、詩、俳句、日本史、日本の伝統文化やイベントを随時教えたりなど、ネタ探しに奔走の毎日であった。
なお、動詞の活用や細かな品詞等文法表現の指導は、日本語教師として学んだ経験が役立った。たまに日本に帰る時は子供の国語関連の教材を大量に買うことになり(それでも次回の里帰りまでネタが持たないが)、日中仕事をしているので準備は夜子供が寝てからになり、子供の当時のレベルにあったものや、理解度が乏しい箇所を踏まえた問題文を作り続けた。
ハワイでの日系人の友人達の日本語読み書き能力を知っていたし、周りに日本語を話す人がおらず、学校でも日本語の授業がなかったこと、また子供が大人になった頃に思い出したように日本語読み書きを教えるのは時期既に遅しであることも踏まえ、正直面倒臭いが、日本人の親である私が率先して幼児の頃から「毎日」朝一に日本語を教え続けた。いずれ子供が日本語の読み書きだけでなく、日本語自体全く不要の人生を送る可能性はあるが、それを言っちゃおしまいで、私のやる気も萎れかねない。日本語を学んだことで、言語だけでなく、その文化習慣価値観や日本的発想等、その何かがどこかで今後役立つかもしれないという、つまり教養としていつか役立つのだと(少なくとも私自身を納得させ)頑張ってきた。子供達もよく嫌がらず学んでくれたと思う。
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アメリカ永住し、ハーフの子供がいるが、子供にどう日本語を教えるか?言語は英語のみでよいとされる方もおられるが、私の場合、英語日本語両方を子供に習得して欲しい。そして特に大変なのは、日本語の「読み書き」をどう教えるかである。片親でも日本人であり、子供に日本語で接する環境であれば、それなりに日本語による会話はできるようになる。それにより聞く話すはできるが、読み書きについては、私は別物と考えている。
ハワイにいた頃は、日系人の友人が多くいた。彼らはジョン川口などと、日本人の苗字とアメリカ人のファーストネームを持ち、母国語はたいてい英語だ。日本語も話せるが、読み書きは総じてネイティブ日本人と同レベルではない印象だった。30、40歳を越えても、漢字を滅多に使わず(使えず)、小学生のような日本語の字体であった。それは日本語の読み書きの機会、また日本語を書く必要自体ほとんどなかったからかもしれない。
読み書きの習得は、大人になってからではより大変なので、小さいうちから、できれば生まれる前からどう教えるか道筋を立てるのも手だ。周りに日本語を話す人や、日本語学校があれば大きな助けとなるが、そういう環境ではなかったので、私は100%の割合で子供に日本語で話し、寝る前によく日本語の本を読んであげた他に、日本語のTVチャンネルを導入しよく見させた。これでさしあたりの日本語で聞く話す環境を整備した(つもりでいた)。
そして問題の読み書きの環境整備である。私は国語の教員免許保持者でもない、単なるアメリカ永住する日本人であるので、子供にどう日本語の読み書きを習得させるかは大変骨の折れる重労働に感じた(今もそうだが)。とにもかくにも、幼児のうちから、母国語(英語)は妻から、日本語は私により読み書きを教え続けた。母国語自体定まっていないような頃から、二ヶ国語同時に教えるのはどうか、という記事を昔見た記憶があるが、赤ちゃんから幼児にかけてのいわゆる言語習得の黄金期間を使わない手はなかったので、3歳頃から既にひらがな、カタカナを教え、5歳には小学一年生の漢字80字と、短文読解を始めた記憶がある。次回に続く。
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私が住むNY北部は、冬になると雪がよく降る。一晩で50, 60センチ降ることもあり、せっせと雪かきをしないと車が出せないほどで、11月頃から3月頃まで憂鬱な期間が続く。通勤、通学と言えば、電車がないため車になるが、朝夕のこの車の運転が怖いほどだ。雪がすごいので、運転はかなり注意が必要で、前が見づらく、スリップしやすい。こちらが気をつけていても、周りの車がスリップして当たってくる恐れも大いにある。
雪国だから、雪道の運転は慣れているとは限らない。雪の降る朝、車を運転すれば、1日1台ペースで、事故車を見ることができる。高速道路の脇に突っ込んだ車や、横転している車、スリップして接触事故を起こしている車などを頻繁に見ることができ、そのおかげで渋滞がよく発生する。かなりの年数をここで過ごす私も、未だにこの時期の運転は怖い。
状況によっては、(ワイパーフル回転でも)前が見えなかったり、ブレーキをかけても止まらなかったり、ほんの少しだけハンドルを切ったつもりでもスリップして車がくるっと一回転してしまうこともある。雪による何十台もの玉突き事故や、子供を乗せたスクールバスが横転してけが人が出た、というニュースなどが毎年のように出る。
日本から駐在員として来られる方は、たいていこの雪に戸惑われる。そして交差点を曲がる際は、あせらずに、ハンドルを急に切らずゆっくりと切った方がいいですよ、とアドバイスする。それはまるで熱湯が満タンに入ったコップを片手で持ったまま曲がるようなほど、ゆっくり右左折したほうがいいくらいの豪雪日もある。左ハンドル、右車線走行だけでなく、この豪雪となれば、それこそ必死で、えらい所に赴任したものだ、とこぼす方もおられる。私は昔ハワイに住んでいただけに、指折り数えるようにいつも冬が終わるのを切望する気持ちは大変強いものがある。
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アメリカ人が作る弁当は、正直言って貧相だ。ちゃっちいというか、簡単で、日本の奥様方が作る芸術品に近いデコレーション弁当に比べれば、天と地のほどだ。私の妻も、まれに作ってくれるが、典型的なアメリカ人の弁当である。もちろん、作ってくれることに対しては大変感謝しているわけだが、日本で私の母親がよく作ってくれたような、数品目、時に10品目ほどある彩り豊かで栄養ある弁当を食べ育っただけに、アメリカの弁当はなんじゃこれは?と言うほどの質素ぶりだ。
例えば、ジャムだけのサンドイッチが2枚だけとか、りんごそのまま1個だけとか、小指ほどの小さい人参数本と、ヨーグルト1個だけとか、シリアルバーやチョコレートバー2, 3本だけとか、バナナ2本だけとか、昨日の夕食の残りを詰め込んだだけとか、冷凍スライスピザ2片だけとか、ポテトチッブス袋ごと1個だけとか、大変質素な「弁当」を作る人も結構いる。丁寧な弁当を作る人もいるものの、これらは金がないから、というよりは、弁当とはそういうものだ、と思われている節がある。
なおドリンクはペットボトルに入った水か、ペプシかマウンテンデュー等の甘ったるいものが多い。これら弁当の準備は1, 2分程度でできるものが多く、子供の健康を考え手間暇かけた日本の芸術弁当とはレベルが違う。
ハワイにいた頃は、日系のスーパーなどで買える弁当は日本のそれとよく似ていたが、今住んでいるNY北部では、スーパーに弁当らしきものはあまりない。日本にあるような惣菜コーナー自体ない場合が多く、なんとか弁当としてそのまま買えそうなものは、小さい人参、セロリ、ミニトマトがいくつかとディッピングソースが入っているパックのものや、2, 3種類の味が選べるクラッカーセット程度だ。日本のそれと比べた際、弁当の中身だけでなく、それでまかり通っている彼らの弁当に対する価値観にも驚く。
栄養豊富で、見栄えも味も良い日本の弁当は、世界に誇るべき芸術品ではないかと、アメリカ永住しながらひしひしと感じるのである。
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アメリカで永住する人と話をすると、時々だが違和感を感じる瞬間がある。それは、日本語と英語がかなりミックスされた会話がしばしば行われるためである。例えば、それをMake sureして、とかYesです、とかMe tooです、とかSo
what?ですよ、とかConfirmする必要がある、とかInterestingですねぇ、などと英語日本語をミックスして話す人がいる。日本に住む日本人でもこうした類はあるかもしれないが、(確認、と言わずConfirmと言う様な)それ相応の日本語の単語があるにもかかわらず英語を使ってさらっと表現してしまう。要は英語でその表現を言う方が楽で、スッと口から出てくる。聞き手も同じくアメリカ永住者ならば、普段からそれは英語で言うほうが多いということはあうんで分かるだろう、と言わんばかりに、ミックスされる頻度は高まるほどだ。
突き詰めると、話が分かればいいのだが、なんとなく違和感はやはり感じる。日本人同士で話すなら、CDはCDだが、確認はやはり確認と言う単語であって、Confirmでないわけで(ちゃんと言えば
Confirmationだが)、日本語を話すモードになっている頭に水を差すようで、二言語の行き来を余分にする労力を強いられているような気もしないでもない。英語のみで言ってもらったほうが楽なほどの時もある。
しかしかく言う私も、アメリカ人と英語で会話する時間が多いため、普段から空港と言うよりはAirportと言う頻度のほうが多いので、日本人と話をする際は喉までAirportと出かかっているのを空港と言い換えるような、直前切り替え作業をすることもある。正直、面倒臭い気がしないでもない(それは尊敬語謙譲語を瞬時に使い分けるような感覚に似ている)。
口から出かかっているのをそのまま言うのは楽だし、相手が分かればそのまま出してもいい気もする。そう割り切ったアメリカ永住者の人々(日本人男性に多い気がする)が、ミックスされた会話をするのかもしれない。個人的には、英語動詞が日本語名詞化するなど不細工な使い方をするほうがより違和感を感じるので、直前切り変え作業が面倒臭くても、日本人そして自分の子供達には出来る限り綺麗な日本語のみで話すようにしている。
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私はガレージセールが大好きだ。日本では珍しいが、アメリカでは特に週末、至る所でガレージセールが開かれる。個人が家の軒先で行うもの、教会や学校が建物内で行うもの、近所数軒が同時に行うものなど、天気のよい日は多くの人々が行っている。衣類、日用品、家具、雑貨、家事用品、家電、おもちゃ、本、アウトドア品などが陳列され、大変安く、言い値でより値下げすることもある。また基本は中古であるが、使ってもいない新品や、思わぬお宝に出くわすことがある。
私はその中でも、バッグセールが好きで、ほぼ毎日、近くで開催しないかウェブサイトやフリーペーパーなどでチェックする。バッグセールとは、
主催者がスーパーのビニール袋や紙袋を大量に用意し、全て詰め放題で3ドルなどと、時間限定で行うガレージセールのことだ。在庫一掃とばかりに、品物を一
気にさばきたい時にしばしば行われる。
特に教会などで、体育館ほどの広さの敷地でバッグセールが時々行われるが、私は都合が合う限りそれらに行くことが多い。なぜなら数え切れないほどの物全てが限りなくタダになるからだ。ジャンクばかりではないのか、と思う人もいるだろうが、確かにジャンクもある。しかし数百、数千点の品物全てが、袋に詰め放題で数ドルなので、既に自分の家にあるものでも、より品質の良いものがあれば袋に入れることがあるし、潜在的に欲しいと思っていたがそれが何か忘れていたものや、発想もなかった興味深いものやお宝、今すぐ必要にならないが今後必要になるもの、お金を出して買うほどでもないがほぼタダだしまあ試しになら、というものなど、気軽に、限りなく安く買え、自分の家の所持品が潤い、時にグレードアップするようだ。
おそらく無料やプレゼント、タダで譲り受けるの次に、最も安く物品を購入できる手段の一つではないかと思う。別に生活に困っているわけでも、特別欲しいものがあるわけでもないが、行けば楽しい。お宝を見つけた時は、嬉しいし、まるで狩猟的本能を満たせたような気にもなる。さらに出費は数ドルのみだから大したこともない。
バッグセールに行くのは、有意義な暇つぶしと言うか、趣味の領域になってしまっている。あまりにバッグセールに照準を合わせて出かけているので、あなたはバッグセールハンターね、などと妻に冷やかされることもある。
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外国に長く住んでいると、逆カルチャーショックを受けることがある。久々に母国に里帰りすると、現在住む外国の価値観習慣に適応してしまっているため、母国のそれがまるで異文化に接しているような違和感を感じてしまう。生まれ育った母国の、その価値観習慣は理解できるはずだが、知らぬうちに現在在住する国のそれが自分の中で第一義となってしまい、新鮮さを覚え、時に理解に苦しみ、自分は一体何人なのだろうと、アイデンティティーが揺らぎ、心に不安を感じる人もいるかもしれない。
私も数年ぶりに日本に里帰りすることがあるが、例えば日本に到着するや否や、空港内で走る日本人をちらほら目にして驚き
(アメリカでは滅多に建物内で走る人を見ない)、二列で順番待ちをしていると、流れが遅い列にいた日本人が、並べというから並んでいるのに、なぜ後から来た人が先にいけるの、どういうつもり?と係員にクレームを出している(アメリカではそういう光景をあまり見ないので、ああ日本に帰ってきたと実感し始める)。
また親が小さい子供を叱り、頭を叩いているのを見かける(アメリカでは目撃者に通報されて逮捕される可能性がある)。レストランでテーブルの上にあるボタンを押せば店員が来てくれる(アメリカではそんな店はほとんどない)。スーパーに行けば店内音楽が流れやけににぎやかで(アメリカではたいてい静かだ)、レジでは一点別に398円が一点、等と店員が読み上げる(アメリカではそんなことはしない)、軽四やスクーターが多くワオ!と思う(私の済む田舎では小型車をあまり見ないので)、ゴミの区別が細かく、決まった時間外に捨てると誰かが怒ってくる(私の住む所は燃えるごみとビン、カンの区別しかなく、ゴミの日前日夜から家の前に置いてもよい)。
4,5メートルしかない道幅でも、対向車と難なくすれ違える運転能力の高さ(アメリカはたいてい道幅が広いので、私はもう恐怖さえ感じる)、預金を引き出して数百円手数料を取られる(ただ呆れる)、店の店員はたいていにこやかだが、それ以外のサービス業の運転手やその他係員等は比較的ため口で横柄で、それが地域ならではの親密さを出すやり方かもしれぬが、人の二面性を見て怖くなった(アメリカでは公私でそんな豹変せずたいてい自然体なので)、買物や娯楽で来たのに駐車料金を取られる(アメリカではまずない)、冬はマスクする人が大変多いこと(アメリカではほぼゼロなので)、人を感知して動くエアコンなどアメリカより数歩先行く家電を見る、など。
日本にいた頃はそれらは当然のこととして分かっていたが、久方ぶりだとそんな事忘れていたので驚く。そして違いに気づくたび、それら日本の価値観習慣を当然のように理解し過ごしていた当時の私に出会えた感覚というか、開くきっかけがなかった記憶の引き出しから昔の自分と再会できたような感覚というか、デジャブというか、不思議な感覚を覚えることがある。要は慣れなので、生活の本拠があるアメリカに戻ると快適に感じるし、良くも悪くもそういう違いが観光名所巡りと同じくらいの思い出となるのである。
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夫婦仲や恋人仲がうまくいっておらず喧嘩ばかりなのでどうすればいいですか?という人生相談的なサイトを先日たまたま目にして、それに対し、ありがとう、といろんな場面で言うといいですよ、と回答されていた。
私もそう思う。優しい言葉で接してほしいのではなく、優しい心で接してほしいのだ、と言われるが、その環境作りとして、また相手を気遣う魔法の言葉のうち、最も簡単で効果のある一つが、ありがとう、だと思う。
日本にいた頃は、今ほどありがとうと言わなかった(言えなかった)。アメリカに住み始めてから、およそ劇的にありがとう(Thank
you)を多用するようになったが、それは周りの人々が日常的にほんの小さなことにも自然にThank
youと言っている環境に感化されたからだと思う。
ドアを開けて待ってくれた時、物を取ってもらった時、買物でお金を支払う時、サービスを受けた時、電話を切る時、会話が終わる時、食べ終わった時作ってくれた妻に対して、来客者に対して、言った事をしてくれた子供に対して、など、基本相手が誰であっても自分に何かしてくれた時はすぐThank youと言う。
出先でも、自分はお金を払う客の立場だからと店員等との間に優劣を作って接するような発想はほとんどない。どんな立場状況でも、何かしてもらったら相手が誰であってもThank youと言う。日本にいた頃、スーパーやコンビニでは一言も話さず買い物を済ましていた気がするが、所変われば人変わるものだ。
Thank youと言うと、言った側言われた側とも気分がいい。言った側は、たとえ小さな事でも自分のためにわざわざ何かしてもらったわけで嬉しいし、気分が多少ほころぶ。言われたほうも嬉しいからまたしてあげようという気になる。そういう瞬間が一日に何十回とある。勇気を出しての一言ではなく、それは投げた石が水の波紋を四方に広げるような感覚で、相当数のアメリカ人が主体的日常的に行っている。
ありがとうというプラスの感情をこちらから言い続ければ、自分もまた何かしたくなるという相乗効果で、相手を認め気遣いあう素地が出来てくる。またありがとうと言うと相手を認め自分の立場が下になり下がり、あたかもこちらが負けのような発想もアメリカではほとんどなく、むしろ逆で積極的に言うべきであるほどだ。
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朝の連続テレビ小説「マッサン」が始まる。今までTVドラマに対して、始まる前から楽しみにしていた事等一度もなかったが、このマッサンには大変興味を持ち、毎日楽しみにしている。
単なるTVドラマとして、例えば日本初のウイスキー作りを行った主人公の生き様や、私の出身である関西が舞台に出る、といったことも理由ではあるが、最も大きな興味を引くのは、主人公の夫婦がまるで私と妻のように感じる点だ。私は日本人男性で、妻はアメリカ人女性であり、大阪で知り合い、日本で結婚し、二人で渡米した。親に大反対され、大きな不安を抱えつつも、同時に自分達の前に広がる無限の可能性に駆けた結婚当初。マッサンの予告編を見た瞬間、懐かしさに似た気持ちとともに、当時の若い私たち夫婦の姿をそこに垣間見た気がした。
エリーが日本で適応しようと一生懸命頑張る姿、夢を追いかけ仕事に没頭するマッサン、そしてマッサンの両親、心強い友人、ご近所さん、心の熱い仕事仲間など、ドラマに出てくるこれら登場人物を、まるで私と妻、周りの人々に当てはめて見ている自分がいる。当時妻が私の両親に初めて対面した時も、ドラマのエリーようにハグを仕掛けたが、私の母は「何するのよ!、結婚など許しません、出て行きなさい!」、とそれはもうマッサンの母、泉ピン子のように拒絶し、私の妻もエリーのように泣いたのを覚えており、懐かしさによる笑い、またあまりに私の母に似た泉ピン子の言動に私達一同笑ってしまった。
夫婦のやり取りも同じく、一般的な日本人男性として朝から晩までがむしゃらに働く私だったが、妻は夫も家庭を優先するのが当然と思い、夫婦として互いに望む役割分担に当初は違和感を感じたものだ。マッサンで出てくるような夫婦喧嘩も、あるある!と思える瞬間が随所にある。まるで私たち夫婦そのままのような大声を張り上げた言い合いや喧嘩をするだけでなく、国際結婚だからこそ余計相手の心や文化価値観にも気を配り理解しようとし、根底に愛がある相互理解など、びっくりするほど随所で笑いや共感を覚えてしまうシーンがあり、親近感を持って見てしまう。
普通の日本人として、日本に住み、日本人と結婚し、普通に日本に暮らす人生も選択肢にあった。しかし今こうして遠い異国で住んでいる。私と妻は、このマッサン達と大体よく似た思いを持って、母国に残した両親に望郷に似た気持ちは残しつつも、夢に向かい頑張っているのだ、という事を再認識させてくれ、この人生でもあながち間違いではなかったなと、背中を後押しさせてくれるような気にこのドラマはさせてくれる。国際結婚した夫婦はこういう風な生活送っているのか、とか、こういう価値観考え方のもと頑張っているのか、など多くの方に理解してもらえれば、そういう生活を送っている私達夫婦にとっても何だか嬉しい気分になる。
そして今から100年ほど前に既に日本人男性と外国人女性が結婚し、夢に向かって頑張られた大先輩夫婦がおられたのか、という事実が、私が遠い異国で望郷心で寂しくなったとしても、自分の人生は間違っていないと、そしてよし、また頑張るか、とまた一歩踏み出そうという気にさせてくれる。なぜならこのご時世、国際結婚する人が多くなったといえ、それを実際行いかつ異国の地で永住する者の身としては、なぜ外人と結婚するのかとか、なぜあえてそんな困難な道に進むのかとか、どこかアウトロー的に見られたり、もし離婚すればそれ見たことか、と自分たち夫婦だけでなく国際結婚した事実も咎められそうで、そのプレッシャーに似た気持ちは未だいささか心のどこかにあるからだ。
そういった、登場人物に自己投影でき、国際結婚夫婦の認知と理解が進む期待、そしてこれからの海外生活でも背中を押してくれるような大先輩がいたという事実、こうした理由があるので、私にとってマッサンは、単なるドラマを見るとはまた違った意味で楽しみにしているのである。
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私が住むNY北部では、毎年5月から6月頃にかけて、Cottonwood(コットンウッド)の種子が飛んでくる。
それはまるで粉雪のようでもあり、タンポポの綿毛のようでもある。大きさはいろいろだが、2, 3センチ位であり、いくつかがくっついてゴルフボールのようになっているものもある。
軽くふわふわの白い綿毛で、とにかく大量に空中を舞っていることもあり、雪が降っているように視界が見えづらいほどの日もある。あまりにその数が多いので、
外を歩いていれば口に入ったり、髪の毛や服に引っかかったりする。庭の芝生には白いカーペットが出来ているような時もある。ただ軽いため風によく吹かれ、
道の両側や袋小路などに大量にコットンウッドの綿毛が堆積し、汚らしく思う事の方が多い。一方で軽いので雪かきのように面倒な作業は要らず、夏が来て本格的に暑くなる頃には、土に溶けるのか、跡形もなく消えてしまう。
コットンウッドの木は、枝に葉と同時に綿毛がたくさんついているので白っぽく、他の木々と見分けがつきやすいが、この時期以外では他の木と見分けがつきにくく、普通の木とあまりかわらない。
天気のよい日には、私は自宅の裏庭で布団や洗濯物を干すが、このコットンウッドが舞うと煩わしさを感じる日がある。小さい子供は捕まえようと四方八方に走って喜ぶこともあるが。
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アメリカと日本では、仕事に対する捉え方が多少異なっているように感じる。個人的印象では、いまだに日本では仕事には滅私奉公で、基本的にいったん就職すれば定年まで同じ職に就こうという風潮があるかと思う。辞めたくても、もし辞めれば次の中途採用がなかなかされにくいので同じ会社に留まる人も多いのではないか。
アメリカでは、もっとフランクというか、自由であり、嫌だと感じたり、より良い待遇の職があればすぐ転職をする。世間も、中途採用に好意的で、大卒新入社員採用よりも即戦力になる中途採用も思いのほか多い。ヘッドハンティングもよくあるし、自ら気に入った会社に売り込む人も多い。様々な不満を抱えつつも同じ職場にいるよりは、いいところがあれば中年でも、管理職に就いていても転職する。
そのためか、同様に引越しもよくする。日本だといったん家を買えば、生涯同じ家で暮らし、子にも相続させてあげようと思う人は多いが、アメリカではそういう価値観は日本より低い。いい職が遠い他州であれば、家もさっさと売り払う。転職でなくとも、単により良い家が見つかれば引越しをする。職も家も、より良いものを探し続ける狩人のようだ。
突き詰めれば、大昔にさかのぼり同じ場所に定住する農耕民族と、より良い獲物を探し求める狩猟民族のようで、人の深層にある根本的価値観の違いに端を発するかもしれない。
ア
メリカでは、生涯に平均しておよそ15回引越しをするといわれる。育ててきた近所付き合いを大事にするとか、詳しい地元の土地勘を無駄にしたくないとか、
生まれ育った地域だからとか、親や親族が近くにいるとか、住宅ローンが残っているからとか、新天地に慣れるまでの心労とか、そんなことよりも、より主観的に、より良い職に就職したための引越しとか、より良い家、より良い学校地区、より理解出来うる税金額の地区、気候がいい所、家族の成長に合わせより大きい家、小さい家に引っ越すなど、自らをその場所に縛りつけられているような呪縛的感覚はあまりなく、思い立ったが吉日的に、どんどん引越しをする。
勤続40年の大ベテランも周辺にはいるが、それよりも他の会社に転職したり、どこかから転職してくる人も、私の会社では多いし、家の近所でも、引っ越してきたり、引っ越してどこかに行った人も定期的に起こる。アメリカは日本よりももっと人の流動性がある。
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アメリカの家には、表札がない。家の前に着いても、そこに何という人が住んでいるかまったく分からないのが通常だ。日本だと大理石や木などでできた表札に、住居者の名前、時に住所までご丁寧に記載されているので、アメリカのそれと好対照である。
アメリカの家のポストの側面に、小さい字で氏名を書いている場合があるが、それも必ずではなく、またポストの蓋を開けた中に氏名を書いている場合もあり、やはり外から一見してその家の人の名前を判別するのはたやすくない。アパートでも同様だ。
ではどうやって判別するかは、ストリートナンバーから判断するしかない。アメリカの家には、その正面ドアの上部か左右等に、大きな番号が表示されている。
25、とか1677など、その家のストリートナンバー(道番号、番地のようなもの)が遠くからでも分かるように貼り付けられているので、訪問先の家がどれか識別するのは、氏名のある表札ではなくその番号を頼りに探すしかない。もちろん日本のように表札をつけても結構だが、郷に入りては郷に従え、のごとく私の家にも表札はない。ポストにも氏名を書いていない。ただストリートナンバーを表示しているだけである。
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よく揶揄されるブラックジョークに次のようなものがある。日本人アメリカ人イギリス人が沈没する船に乗っていて、海に飛び込むのを躊躇している人に向かって、イギリス人は「海に飛び込めば紳士になれる」と言い、アメリカ人は「ヒーローになれる」と言う。一方日本人は「上司に相談させてください」というものだ。これにややよく似た状況を、仕事中に感じることがある。
アメリカ人達と会議をする際、なかなか難しい状況やトラブルがあったとしたら、彼らは解決法への最短距離を考え即決したがるところがある。「よし、それで行こう。」と言わんばかりに、ゴール一直線の明快な考え方が多く、会議時間も比較的短く済む。
もしこれが日本人相手だったら、と思うと、そうは行かないだろう。私には分かりかねるので上司に指示を仰いでから、とか確認させてほしい、などとその場では決まらない場合が多いのではないかと、日本でのサラリーマン経験から推測できる。日本から駐在で来ている方も、口をそろえて大体同じような事を仰る。日本だと決定にこぎつけるまで、稟議書、提案書など様々な書類資料を作り、多くの上長、上司の承認を経る必要があるが、アメリカでは口頭で即決で決まるんですね、等と言う方もおられる。アメリカ人が、彼らの上司の判断が必要な場合でも、会議中にすぐ電話し、OK、と返事をもらい決定したり、Approved.とメール一本で返答、即決することを何度となく見てきたので、こちらとしてもその即決力、即断力に助けられたケースも多い。
石橋を叩いて渡るというような、様々なケースを想定して外堀を埋めていくようなほふく前進戦術、というよりは、ズドーンと一直線の道ができ、その後にもし問題がでたら都度調整、というようなスタンスがアメリカに近いような気がする。
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ない物ねだりをするのはアメリカに住んでいても見受けられる。例えば、高い鼻が嫌だと低い鼻に整形する人や、アジア人の綺麗な黒髪に惹かれて、金髪を真っ黒に染めるアメリカ人もいる。また胸が大きすぎると手術をして小さくする人がいる。日本と逆で興味深い。
日本だと鼻が平たく低いと、格好悪いから欧米人のような高い鼻に憧れる人が多いかもしれぬが、アメリカでは大体逆の発想だ。かなり高いわし鼻は格好悪いとして、小さい鼻に憧れ整形手術する人もいる。日本だと欧米人に憧れ金髪や茶髪に染める人が多いが、アメリカでは逆に綺麗な黒髪に憧れる人が多い。
ところで私が教えている日本語レッスンの10代の生徒のなかには、日本のビジュアル系音楽が大好きで、それがきっかけで日本に傾倒し、日本語、日本の音楽、
雑誌、流行などに夢中の子がいる。昔と違ってインターネットでそれらを瞬時に触れることができ、彼女は私より日本のニュースや流行に詳しいほどだ。
自分の国に嫌気が差したので他国に興味が向くのか、そうではなく単に自国にない何かに憧れやかっこよさ、居心地のよさ気持ちよさ等を感じられる何かがあるのか、人によるが、その日本語レッスンの生徒のように本人自身に強烈な興味や動機があるので、日本語の理解度はすこぶる早い。楽しんでいるのがわかり、私が話す日本関連の話にはいつも目を輝かせて聞いてくる。一方興味もなく「いやいや」なので日本語理解が遅い、来年急遽日本に行かねばならないと言うことで教えている30代のアメリカ人男性とは好対照であるが。
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アメリカ人はよく祝うのが好きだ。彼らは比較的パーティー好きで、ただ理由もなくわいわいやるだけでなく、何かを祝うためのパーティーももちろんよくあるわけだが、祝うその理由がユニークなことがある。
例えば、誕生日の半年前にパーティーをしたり、誕生日1ヶ月前パーティーをする家庭もある。また結婚10周年、20周年など、節目に当たる年に、再度同じ配偶者と結婚式やパーティーをする夫婦もいる。
子供が小さい場合は、クリスマス1ヶ月前からクリスマスイブまで、毎日朝起きてすぐ、本など何か1つ小さなプレゼントを与え続ける家庭もある。
誕生日半年前パーティーをする家庭では、まだ半年前ということでバースデーケーキが最初から半分で登場したり、バースデーソングに半年前の文言を加えて歌ったり茶目っ気のあるパーティーをする家庭もある。曜日は金曜日の夜か、週末祝日が多いわけだが、その日にうまく目的の日がかち合わなければ、誕生日半年前+2日前パーティーなどとかなり無理のある名目で人を誘う人もいる。もちろん、名目などなくただパーティーを頻繁にする人もいる。
そういうイベントの日に対して、参加する方も、義務的にいやいや、面倒臭く参加というよりは、人とにぎやかに楽しい時間を過ごしたいというお祭り騒ぎ的気質が根底にあるからか、堅苦しさもさほどなく、都合が付けばさらっと参加するものだ。
何かと祝ったりパーティーをしたりするのは、通常の生活にメリハリや人との繋がりをさらに感じられて楽しいものである。
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アメリカ永住してかなりの年月が経った。アメリカ移住当時の私がもし日本一色なら、今の私は日本とアメリカの2色が混ざっているような感じだ。永住年数がさらに経つにつれアメリカ色が強くなるかもしれないが、混ざって別の色しかないのではなく、心のどこか基盤となる奥底には日本色が決して混ざることなく存在している。
ハーフでなくダブルというか、二刀流というか、どちらの人とも考え価値観、文化が分かる。日本人と会う時は日本人としての私になり、
アメリカ人と会う時はアメリカ人としての私がいる。二人の私が時と場所に応じて自動で切り替わり現れるかのようだ。別の例えでは日本人という2つの眼に、
アメリカというメガネをかけ、必要に応じかけ外して暮らしているようだ。
一方で私は日本人であり、幼年期を日本で過ごしたのでコアな部分は日本人的な価値観である。なので先の例では眼は日本で、メガネはアメリカで、逆にはならない。地中の根は日本人で、枝葉は日本産アメリカ産が混じった木のようなものだ。
どちらにも対応できるが、反面どちらか純正100%の人間ではもうない。国籍は日本人でも、また外見も日本人でも、価値観考え方はかなりアメリカナイズされてきたため、生粋の日本人の感覚はない。しかしアメリカ永住しているものの、アメリカ生まれアメリカ育ちの生粋アメリカ人とは、また違う。自分という中で、アメリカ永住年数が経つほどアメリカ人としての占有率が高まるが、日本人としての何割かは生まれ育ったものとして絶対に消えない。いくらアメリカ人のみとの生活を今後続けてもそれは変わらないだろう。
なおそういうアイデンティティーがユニークなので、私の息子のように、ハーフの子供の中には私は何人で一体何なのか?と悩む人がいるのかもしれない。子供達には、日本アメリカ両方の言語や文化習慣を知っているので、あなたは(中途半端を意味する)ハーフでなく、ダブルであって、日本アメリカ両方とも母国であり、それはとてもラッキーなのだよ、などと思春期に悩まないよう、防波線を張るかのように小さい頃からラッキーなのだと何度も伝えてきた記憶がある。
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前回の続き。アメリカに永住する以上、日本語を学ぶ必要性が子供になかなか生まれず、学ぶ強い動機や目的が定まらない。
最終手段は日本に留学させるしかないか、と思う時もあるが、子供がそれを望まないのならば親のエゴになりかねず、なかなか歯がゆい。外国に出て世界を知り、子供の人生に何かのプラスになれば、と思うがその「何か」がぼやけて確定しない。
日本語を学べば、同時に日本人としての良い部分、例えば礼儀正しさ、人を思いやる優しさ、和をもって尊しとする協調意識、物を大切にする、親や目上の人、自然や超自然的なものに敬意を払う、清潔感を持つ、責任感の強さ、時間を守るなど、概してアメリカ人より優れていそうな美徳も習得できると信じている。
これらは日本人の私と生活をともにすれば身につくと思うが、土台として日本語で話し、私自身日本人の観点価値観で接しなければならないと思う。
こうした性格や価値観を形成させうるものは目に見えず、概念的なもので、言って会得するものでなく私自身が見せて模範を作り体で会得させねばならず、単語を覚えて終わり、の作業とは異なり時間も労力もいる。
だが単なる日本語を覚える作業の先にある、こうした日本人的美徳も持ち合わせた、ハーフでなくダブルの人間になって欲しいと思う。
とはいえアメリカで生きていくために不可欠というほどの動機付けにはまだ決定打に欠けるが、日本人とアメリカ人のハーフの子供として、いつか子供が、父さん、日本語教えてくれてありがとう(おかげで~できた)などと言ってくれたら、私は泣いてしまうかもしれない。
その日を夢見て、少なくとも教える側である私は根気強くアメリカで日本語を教え、日本というものを子孫に伝え残そうとしているのである。
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私のように海外に永住し、外国人とのハーフの子供がおられる家庭は世界にたくさんおられる。
そこで私が今でも悩ましく思うのが、彼らに日本語を学んでもらう大きな理由が見つかりにくいことだ。
子供が大人になり、英語と日本語の両方を読み書き/聞く話す全てで使いこなせるよう、そしてアメリカ国内のみならず、日本で将来仕事をし住むという選択肢を持たせてあげたいという親心から、私は子供に日本語を教える。
しかし子供にとってみれば、物心つくまでは素直に学んでくれても、反抗期頃になれば、なぜ日本語を学ばねばならないのか、と反抗してきやすい。アメリカに住んでいるのだから、日本語など学ばなくてもいいじゃないか、と学ぶ以前の動機付けや目的意識が揺らいでくる。
こちらとしても、将来子供が日本に全く関係ない仕事に就き、アメリカ人と結婚しアメリカに住み、日本と全く関わりのない人生を送る可能性が大いにあると分かっている。そのため悩ましく、教えても無駄になるかも知れぬ、と心のどこかで感じ、自分との根比べに似た気持ちで、教える側学ぶ側ともに本腰が入りにくい。誰かに言われてやるような外発的動機でなく、本人自身が目的を持ち自発的に行える内発的動機自体が沸かない場合もある。
子供の言い分には、読み書きはだめでも、親と日本語で会話が出来、意思疎通できているのだからそれでもういいじゃないか、と、会話力以上の日本語や日本(漢字の読み書き、日本語の小説や新聞を読めるほどの読解力や、日本史、古典文学、日本文化など)について学ぶ理由がないという。
その通りだ、と私も思うが、それでも親バカ心が勝り、役に立たない事を学ぶということは、言い換えるとずっと役に立つと言うことであり、すなわちリベラルアーツ(教養)であるのだ、とか、日本語をもっと学べば、日本にいる親族ともっと会話できるよ、とか、二ヶ国語話せるのはとてもクールだよ、とか、日本の面白いビデオゲームや漫画を楽しめるよ、とか、日本旅行した時もっと楽しいよ、とか、もし今後日本人の恋人ができたら、もっと意思疎通できるよ、とか、取って付けたようなアメリカでの普段の生活には全く影響のない(弱い動機にしかならない)メリットを伝えて誘惑する。次回に続く。
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アメリカに駐在して数年になるある方が、アメリカ人達と英語で流暢に会話されていた。その様子を日本から来られて間もない駐在員の方が、「すごいですね、
全然聞き取れなかったのですが、彼らは何と言っていたのですか?」と先輩駐在員に聞いた所、「それは聞いちゃだめだよー(笑)。」と言っていた。見た目は問題なくアメリカ人とコミュニケーションを取れていそうでも、帰国子女でもなくTOEFLで高得点を取った訳でもなく、平然を装い実は必死で、集中し頑張って会話しているのだ(ある方は、時には何を言っているかさっぱり分からなくとも、愛想笑いとオーバーリアクションで切り抜けているのだ)、と言う。そのため、先輩駐在員から後輩駐在員への代々伝わる暗黙ルールとして
、「アメリカ人が何と言ったか俺に聞くな」、というものがあるらしい。半分笑い話のような所もあるが、だいたい合っている節もあるとの事で、面目ないが先輩の俺も分からないのだから、そこは触れるな、という訳だ。
いつもいつも分からない訳ではないだろうが、酒の席等でそういう質問が着任したての方から出れば、場が一瞬凍り付く事もあるが、それは暗黙のルールだよー、と笑い話に変える先輩駐在員の顔を見れば、彼らの気苦労を垣間見る事ができる。
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毎年五月の最終月曜日はメモリアルデーで、軍人を讃える日で祝日だ。軍人戦没者の墓前や、軍人の家の軒先にはアメリカ国旗が掲げられる。そして各町ではパレードが行われる。今年も自分の町のメインストリートでパレードがあり見に行ってきた。パレードでは、その町出身の退役軍人が軍服を着て行進し、観客は敬意を表し立って脱帽し拍手をする。敬礼する観客もいる。
しかし日本人である私は未だに、少し心穏やかでない時がある。戦争で日本人を殺しているし、私の叔父達もガダルカナル島やミッドウェー海戦等で戦死した。もしかすれば叔父達を殺したのは目の前で行進している軍人達かもしれない訳で(可能性は低いが)、
パレードで国の英雄として彼らを心から拍手をするのにはためらいがある。
また第二次世界大戦時アメリカにいた日系人の待遇や、日系アメリカ人として日本と戦った兵士等、歴史をみれば暗い過去があり、今後もしもの事を考えれば、複雑な心境になる。
そういう気持ちは今も事実としてあるにはあるが、いつまでもそうは言ってられない。自分の国を守るために軍人として行動したのは日米どちらも同じであるし、
個々人を恨むのは筋がおかしい気がする。日本人を大量に殺しやがって、等と思うのではなく、単に母国のため戦地で命をかけて奉公した、という点に敬意を表して、軍人のパレードを今年も眺めていた。アメリカのメモリアルデーのように、歴史を学ぶ歴史の日等日本でもあればいいかもなと思う。
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日本から来られる男性駐在員が、アメリカ人と話をする際に比較的よく見られるコミュニケーション方法がある。それは無意味によく笑うということだ。今までたくさんの男性駐在員を見てきたが、彼らのうちかなりの方が、まるで明石家さんまのようにすぐ笑う。正直なところ話の内容からして特に面白くはないが、ニコニコ、ニタニタと、時にハハハ、ガハハと笑う。彼らなりに場の雰囲気を温めたり盛り上げようとしているのは明らかである。
しかし何も面白いことを言っていないので、相手のアメリカ人はたいてい笑わない。ニタニタと、こいつは何が面白いのだ、と口には出さないが思っているアメリカ人のオーラを、私はひしひしと感じる。また歌手の
Avril Lavigneは、日本人男性はニヤニヤして気持ち悪いと言う。彼らの努力が裏目に出たようだ。
とはいえ無意味の笑いが必ずしも場の雰囲気をさらに冷やすのではなく、多少は和やかなムードに貢献したり、後に本当に双方心から笑える話が出やすいきっかけにもなりうる場合もある。
つまりそういう話術に乗ってくれるアメリカ人もいれば、全く乗ってこないアメリカ人もいる。全く乗ってこないアメリカ人にそういう話術を続ける日本人を見ると、少し寂しく惨めに思えるほどで、相手のアメリカ人が気持ち悪いからやめろと言わんばかりの、ビシッと来る高速ストレートのような苛立った声と内容で返答する者もいる。
相手が乗ろうが乗らまいが、無意味に笑うコミュニケーション術では、こちらがどうも下手の立場になり、話の主導権を簡単に譲ってそうで、私は真似しない。そうでなく、アメリカ人と円滑にコミュニケーションするには、簡潔かつユーモアセンス(本当に面白いと思わせる内容や機転の効いたジョーク)を随所に入れるほうが自然で、それが彼らの話し方でもある。
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アメリカの親も、子供に習い事をよくさせるが、一つ気づいたことを書いてみる。それは、日本のそれよりも、空手教室に行かせる親が多い気がする。確かに、
私の自宅周辺は郊外の田舎であるが、空手教室が10個程度はある。柔道、柔術、少林寺、テコンドーもあるが空手教室は中でもよく目立つ。規模の差こそあれ、人口数千人~数万人程度の小都市でも、そのメインストリートや店が立ち並ぶプラザなどで、何とか空手、と大きなサインを掲げた教室をよく見かける。各教室の師範、生徒ともたいていアメリカ人だが、これまた何とか流と、日本人名もしくは日本語を冠した流儀をそれぞれ持っている。自宅近くにも極真空手の何とか流との教室がある。
なぜ多いのか。はっきりとした理由は不明だが、小都市にもいくつもあることから、割と需要はあるようで、日本のように習い事のトップに来る水泳、野球、サッカーのほか、空手もその選択肢によく入る。どちらかというと、小さいうちはコンピュータや機械いじりタイプでなく、まだまだ体を動かせたい、動かしたいと思うアメリカ人も多く、日本発祥の格闘技イコール、クールと思う人が多いのも背景にあるかもしれない(なお相撲教室は近場にはない)。また私が思うように、多民族国家のアメリカで住む以上、より起こりやすいと思われる様々な考え方価値観の相違や人種差別、いじめ等に因る暴力、傷害、その他犯罪(昔に比べれば減った気がするが)に対抗する正当防衛手段として、アメリカで空手を習わせるのは、単に習い事で技能を修得するだけでなく、安全に暮らせる基盤を作る意味でも悪くはないと思う。自分の身は自分で守るの意識が日本より強いアメリカだから、空手が繁盛しているのかもしれない。
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私達の家族は、2時22分などゾロ目の時刻になると、心の中でお願い事をする。車の運転時や、コンピュータのデジタル時計などでゾロ目の時刻を見つけると、家族の誰かが222!等と知らせてくる。そして何か1つお願い事をする。
これはアメリカ人ならだれでもする、というものではないが、いつの間にか習慣になっている。また昔息子の七五三に日本に帰省した際、お寺の神主さんが、神様にお参りする際はお願い事のみを言う方が多いですが、何かお願いする前に、これまで元気でいられてありがとうございますとか、幸せで過ごせてありがとうございますなど感謝の気持ちを伝えてから、最後に神様にお願い事をするといいですよ、とおっしゃったのを今でもよく覚えている。
それ以来、私達の家族ではゾロ目の時刻になると、まず神様に感謝の気持ちを述べてから、何かお願い事を心の中で伝えるようにしている(これは自宅周辺に神社仏閣がなく初詣も出来ない環境であるので、普段からゾロ目の時刻に言う事で代えるようになっていったのかもしれないが)。
私達は無宗教信者だが、これを習慣化していることで心がほっこりするというか、忙しい生活の中でも流されず穏やかな心に軌道修正できるような気がするのである。
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特に昔アメリカで永住し始めた当初は、自分の英語力の低さのためにいろいろと苦労した。例えば日本だと映画館に行っても、洋画では日本語字幕や日本語吹き替えがあり、気軽に楽しめたが、アメリカではそうは行かなかった。
日本では邦画に日本語字幕などない様に、アメリカでアメリカ映画を見ても英語字幕はない。勉強するつもりで映画館に臨んでも、2時間も集中力が続かず、内容について行けず不愉快な思いをしたことが当初はあった。
それからかなりの時が経ち、昔ほどではないものの、洋画を字幕なしで会話内容を100%理解することができるかと言えば、今でもそうとは言えない。
そんな時、聴覚身障者用に特別なメガネをかけて映画鑑賞できるよう無料貸し出しをしている映画館があるのを知った。それは、工場などで目を守るためにつけるようなメガネに似ていて、ややグラスが大きい。そしてグラスのやや下部に、英語字幕がその映画とシンクロしてリアルタイムに表示される。少し顔を動かし、映画のスクリーンの最下部に、メガネに表示される字幕が合う様にすれば、洋画の英語字幕による鑑賞が快適にできる。ワイヤレスであり、映画が始まれば自動で字幕が現れる。設定などは何もしなくていい。
初めてそのめがねを使用した際、それは感動的であった。映画の所々で「ん?」と聞き取れなかった場合でも、字幕で意味を拾える。おかげでほぼ100%意味内容を掴める事ができた。面白い会話のシーンでは、周りの客と同じタイミングで笑えるし、字幕から細かなニュアンスなども拾え、巻き戻せたらいいのに、等と思う不愉快な瞬間が激減した。
アメリカの映画館でチケットを買う際に、聴覚身障者用のメガネを貸して欲しいと一言言えば、別紙に自分の名前と住所の記入と引き換えにすぐ貸してくれる。健常者でも借りられる。
どの映画館でも提供している訳ではないが、アメリカに来て字幕なしで映画を観る自信がない人にとっては、大いに助けてくれるデバイスになるかと思う。
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アメリカの家の照明について書いてみる。アメリカの家の照明は、昼光色や昼白色の蛍光灯ではなく、電球色が一般的だ(職場は日本と同じく昼白色の蛍光灯が多いが)。白色で明るいものでなく、朱色というか、夕焼け色というか、温かみのある照明を使う家庭が多い。知る限りでも、周辺のアメリカの親族、友人知人の家のそのほとんどで、この電球色の照明が使われている。
その形も、日本によくあるような長さ1mくらいある棒状や、輪型のものではなく、電球型のものが多い。そして照明の場所だが、何個かの電球からなる天井設置型のシーリングライトもあるが、同様にスタンド型も大変多い。
リビングルームや寝室などでは、
設計上天井設置の照明自体がない家も多く、間接照明としてスタンド型のルームライトのみを使用している家庭が多いのも目に付く。
特に夜、家族が団欒してくつろぐ場所であるリビングルームこそ、天井からの白い明るい光があるべきと思うかもしれないが、たいていアメリカのリビングルームの照明は夕焼け色で、それほどテカテカしていない。照明が届かない箇所もよくある。リビングルームの角にある電球色のスタンド型ライトのみの場合が多いので、自然と気分が落ち着く。
そういえば、昔日本在住のアメリカ人の家々に行った際も、設計上元々ある天井の蛍光灯を用いず、電球色のルームスタンドを買って使っていた人が多かったのを思い出す。アメリカ人にとって家での照明は白ではなく、夕焼け色の間接照明をより好むのではないかと思う。これは慣れだが、そうした照明の中で暮らしていると、色の効果と言うべきか、昼光色の眩しいほどの部屋にいるよりも心が落ち着き、就寝への移行がよりスムーズにできていると思う。
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アメリカでは離婚率が高い。日本も高くなってきているがそれより高い。そのため、離婚後別の人と再婚したり、または内縁関係として一緒に住むケースがよく見られる。そして新たにまた子供ができたため、腹違いの兄弟や、父が異なる兄弟姉妹達が一緒に住む場合もある。もしくは内縁関係のまま結婚もせず、結婚しても子供も作らず、ただ一緒に住むケースも勿論ある。彼らの多くは、それぞれ前配偶者との間でできた子供が大きくなり独立した場合もあり、一人孤独に暮らすのではなく、新たな愛するパートナーと老後をともに過ごす。内縁関係のままの場合は籍を入れないので、女性は旧姓のままでいたり、前夫の姓のままでいたり色々だ。
このように離婚後(または死別後)、それが再婚にしろ内縁関係のままにしろ、別のパートナーと暮らす人が多いので、彼らの誕生日やクリスマス等の家族で過ごすイベント日には、それぞれの前配偶者との間の子供や孫たちも一堂に会することがある。現在のパートナーとの間に子供がいればさらににぎやかになる。
訪れた子供同士はまったく血の繋がりがなかったり、片親が異なったり色々で、幼い子供ならまだしも大きくなれば、やや居心地が悪くないこともない。
例えば私の妻の両親は離婚し、母は現在別の男性と内縁夫婦として一緒に暮らしている。イベント時には、母、娘(私の妻)とその家族である私と子供2人の他、内縁男性、その男性と前妻との間にできた子と、その家族である配偶者と子供3人が集まる。これで既に計11人になる。もし前夫、前妻にもっと子供がいたり、内縁の夫婦間に新たに子供がいたならさらに増え、大量のクリスマスプレゼントだらけで歩けないほどにもなる。アメリカのクリスマスは子供1人に何個もプレゼントをあげるためで、祖母の子供、その配偶者、孫たちにそれぞれ何個もあげる。子供から親にもあげる場合もある。両親が離婚した場合はもう一方の親の家にも訪れ、これらと同じ事がまた起こることもあるので、イベント時はあちこち移動して忙しい。
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アメリカの一軒家は、たいてい広い庭がある。私が住む郊外に行けばそれはより顕著になる。そして庭には、芝が広がっている。特に春になり暖かくなってくると、その芝が青々と美しく萌える。広い庭に芝生があると、気持ちにゆとりができる。隣家との間隔も日本のより大きい。天気のよい午後に庭の椅子に横になっていると、本当にのどかで、爺さん婆さんのように昼寝をしたくなってくる。
そして芝生があると必ずせねばならないのが芝刈りで、芝刈り機はエンジンの音が大きい。モトクロスバイクのエンジン音のようで爆音だ。これが天気のよい午後は自分の家のものだけでなく周辺の家々の庭からも聞こえてくる。
それはまるで、日本で言う田植え機の音や、ガタンゴトンと鳴る電車の音、通りの雑踏の音、せみの音等が、慣れてくると心地よく聞こえてくることがあるように、芝刈り機の音もそう感じることがある。何もない平和な午後に、芝刈り機の音が遠くから聞こえてくると子守唄のように感じることもある。
同時に、自分の家の芝が伸びてきているならば自分もそろそろしなくては、と気づく合図にもなり、まるで近所で布団をパンパンとベランダで叩いている音を日本で聞くのにも似た感覚にもなる。自分の家の芝だからと、伸ばしっぱなしはできない。近所やコミュニティーから苦情が出てくるからだ。
私が住む地域では、芝刈りは大体4月頃から11月頃まで行い、それを約週一回ペースでやる。25mプールが何十個も入るような数エーカーの庭のある家は大変だが、一般的な家の庭、25mプール数個分程度の庭だと一回1時間から2時間位芝刈りにかかる。椅子に座るトレーラータイプでなければ結構重労働であるが、終わった後は美しい芝生が広がり、草いきれのにおいもいい。個人的に、アメリカの芝は割と平和でのどかな象徴に近いものがある。
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アメリカに住んでいると、日本をより客観的に見れるようになる。日本では常識であることが、アメリカではそうではないと思う瞬間が何度もある。一般的な日本人としてアメリカに住み始めると、なんでそうなるの?とか、おおなるほど、と良くも悪くも気づかされる価値観の違い、文化習慣の違いに触れることになる。
アメリカに住めば、周りのほぼ全員がアメリカ人なわけで、毎日の生活で彼らに感化され続けた結果、首尾よく暮らしていくためにアメリカ人化してきた気がする。外見は日本人でも、価値観考え方は、生活を快適に過ごすため適応していったような感覚だ。
中には日本人としてのアイデンティティーを頑なに固持するかのように、鉄の塊のようにアメリカナイズされる事に拒否する人もいるかもしれないが、私の場合、
アメリカに永住する以上、ある程度ここで適応する必要があり、片足または重心の多くをアメリカに置いた生活のほうが自然なので、私自身の価値観も変わってきたように思う。今ではアメリカ人の価値観、発想、行動の多くが想定の範囲内なので、渡米当初のような違いに驚くことはほとんどなくなってしまった。
つまり日本とアメリカ両方の価値観を持つハイブリッド、ハーフでなくダブルになったような感じだ。日本人と話をしても、彼らの価値観や細かなニュアンスも分かり、アメリカ人と話しても同じく彼らの価値観考え方が分かる。生まれも育ちも違う外国人と話すのではなく、どちらと話しても同胞人として同じ側に立った感覚で理解できるような気がする。
この人と話しても所詮外国人だから、と壁を作ったり、本質的に同調意識を持たないでいたりすることはない。アメリカに長く住んでいると日米どちらも故郷のような感覚で、どちらの側の価値観もそれなりに分かってくる。
日本人は一般的に律儀でまじめ正直で、精密機械のように行動しがちだが、日本からの視点で見るとアメリカ人は何と雑で、時間もルーズで自己中心的で横柄なのだ、と見れなくもないが、アメリカからの視点で見れば、日本人は何と生真面目で、機械のように問題があるとすぐ立ち往生し応用が利かず、自己主張がなく集団行動が大好きなのだろう、と言い換えられなくもない。日本からすればアメリカ人は雑すぎても、アメリカ人からすればそれは息が詰まるほど正確すぎるかも知れず、どちらに基準を置くかで正反対にもなる。
単に年をとり丸くなるのとは別に、長年海外に住めば、自分の考えを絶対的に押し付けるのでなく、異なった意見や見方もより取り入れる心の余裕がずいぶん備わったような気がする。そういうのを突き詰めると国際理解、異文化交流などの概念に繋がるのかもしれない。
それは面倒臭そうかもしれないが、日本で育ち海外に住むには必要な適応であったような気がする。日本で永住するにも、様々な考えを持つ人と暮らしていく必要があるので、他人を理解すると言う作業は無駄ではない。首尾よく暮らしていくために、そこに異なった言葉や文化習慣が加わっただけだ、と楽観的に理解している。
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アメリカに住んでいると、赤の他人による暖かさ、親切心に触れることがしばしばある。それは日本でももちろんあるが、私がアメリカでの普段の生活で実際受けたもの、見たものをいくつか挙げてみる。
店や建物のドアを、後ろから来る人のために持って待っていてくれる。椅子に座る際や、車に乗る際、女性を先に誘導する。知らない人でも目が合えばHelloやHiなど挨拶したり、にこっと笑う。待合室などいろいろな場所で知らない人と居合わせた際、気軽に話し、世間話をする。高齢者や妊婦、幼児などがいれば、率先して席を譲る(それがバスならば譲るのを運転手が確認するまで発車しない)。赤ちゃんや幼児連れの際、周りの人から可愛いね、何ヶ月?などと気軽に話しかけられる。またお店の場合、店員が無料でお菓子やグッズなどを懇意で子供にあげる。両手がふさがっている時、言わなくてもドアを開けてくれたり物を取ってくれたりする。車椅子の人が坂道を登る際や階段を上る際、すぐ助けてくれる。倒れていたり助けが必要な人がいれば、すぐ助ける。店で欲しいものが品切れの場合、店員が他の店で売っているかもしれないとそこへの行き方を教えてくれる。店の中で他の客から、使わないからとクーポンをもらう。信号のない横断歩道を渡る際、すぐ車が止まり道を譲ってくれる。
以上はぱっと思い出したものだが、この他にもまだまだある。意地の悪いアメリカ人もいるけれども、特徴的なのは、これら親切心は日常茶飯事であり、ほとんどの人が当たり前の事として、自然に行ってくれる点だ。初めてアメリカに来た日本人は、思いもかけないアメリカ人の親切心だけでなく、それをさらっと自然にしてくれたことに感心するかもしれない(日本で同じ状況で同じ親切をほとんど受けた事がないならば、感動するかもしれない)。日本人もほとんどが優しい心を持っているが、他人の目を気にしてか、気持ちに余裕を持てない生活を送っているせいなのか、上記の事をするには恥ずかしがるか面倒臭がる人もいるかもしれない。
そして他人からこういう親切を受けた際は、Thank
you.とお礼を言うが、親切をしてくれた人もYou're (very)welcome. Not at all. No big deal.
Anytime. My
pleasure.などとさらっと返答する。恥ずかしけど勇気を出して親切にした、というのではなく、皆が皆親切にし、親切にされ助け合うというのが、地域社会で日本よりももっと浸透している気がする。そんなところで住んでいるとこちらも感化され、そういう親切が自然にでき、習慣化する。そして何より、互いに大変気持ちがいい。
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水道水が飲める国は、世界で10カ国程度だと言われる。アメリカの水道水はどうかというと、経験上一応飲む事ができる。
ハワイに住んでいた頃は、問題なく水が飲めた。不満は特になかった。また現在住むニューヨークではどうかと言うと、こちらも飲める。ただ、お湯を出してグラスに入れてみると、お湯が透明でない事がある。空気がやけに入っているというか、濁っていると言う感じだが、しばらくすると透明に変わる。
そして水道水を水でもお湯でも飲んでみると、カルキっぽい味がすることもある。気にならない程度かもしれないが、敏感な人ならば日本の水道水とやや違う味がするかと思う。グラスの底にカルシウムか何か小さい物が沈着してしているように見える時もある。概して、店で買うミネラルウォーターとはいくらか違う気がする。
なおバルト三国のラトビアという国に昔旅行した際は、水道水はやや黄色かった。滞在した友人宅では、大きなポットに水を入れ、しばらく置いてから飲料水として使用していた。
アメリカの水道水は、場所により日本のようにほぼ完全な無味無臭ほどではないかもしれない。飲めることは飲め、慣れればたいしたことはないかもしれないが、
気になる人は店でミネラルウォーターを買うのも手である。安価で1ダース、2ダース単位で売られていて、多くの人が買っているのをよく見る。
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アメリカで日頃滅多に見ない紙幣があるが、いくらのものと思いますか?
それは50ドルと100ドル札で、日常生活で滅多に見ない。ほぼゼロである。日本だと五千円札や一万円札はよく目にするし使うものだが、アメリカで普段使うのは、1,5,10,20ドル紙幣のみである。50ドル札以上の高額紙幣は、偽造を防止するためあまり使われないと言われる。
実際、普通の店でも高額紙幣の使用を拒むところもある。外国人観光客が多い地区では、高額紙幣を受け入れてくれる店もあるが、必ずしもそうとは限らないので注意が必要だ。
昔日本在住時、ラスベガスに旅行した際、土産物屋で100ドル札を出したが、店員が嫌そうな顔をし、偽造でないか透かしたりまじまじとチェックされたものだ。普通の店では店員自体高額紙幣に見慣れていない場合もあるので、受け入れたとしても偽造でないかの確認に時間を取りがちだ。
こちらとしては悪気はないが、時間をかけられ、かついらぬ嫌疑をかけられているようで居心地が悪かった。アメリカへ行く時にアメリカドルへ両替する際は、高額紙幣は避け、
全て20ドル紙幣に換えてもらうようにしている。財布が膨らみかねないが、支払のたびに時間と手間がかかるよりはましだからだ。
普段の生活で高額紙幣を見るのは、卒業式や結婚祝いで渡す時や、銀行であえてこちらから要求する時程度だ。それ以外は、アメリカのATMで300ドルを引き出しても、全て20ドル紙幣で出てくる。また高額の支払は、多くの人が現金払いでなくチェックかクレジットカードで済ませるのが一般的であるため、私もここしばらくの間、高額紙幣を見ていないほどである。
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アメリカで住み始めた頃、アメリカ人との会話で、よく日本の話題を出した。会って開口一番、暑いね、けど日本はもっと暑いよ、などと日本関連の事に話を持っていこうとしたものだ。車の話題になれば、ところで日本では右ハンドルだとか、軽四と言う車があるとか、会話の内容を(やや無理やりに)日本に関連付けてよく話した。ちなみに日本だと~とか、日本ではこうだ、など、無意識に日本関連の会話ばかりしていたと思う。
それは、自分は日本人であるからホームグランドである日本関連の話をする方が楽でネタが豊富であり、会話の主導権を握りやすいからであったからと思う。
だがある時、アメリカ人の全員が日本に興味があるわけではないと気づいた。何でもかんでも日本に関連付けて話されても、彼ら全員が興味があるわけではないし、日本に興味のない者にとれば楽しくない会話になりかねない。私自身、誰もが興味を引くような面白い日本関連の話をいつもしていたわけではないので、特に面白くなければ興味もない日本関連の話ばかりをよくされた側になれば気も滅入ると、容易に想像がつく。
昔日本にいた頃、何かにつけていつもウクライナの話に関連付ける友人がいて、興味もなく面白くもなかったので内心少し鬱陶しかったが、私がその友人のようである気がした。
日本人だから、アメリカ人がよく知らないであろう日本関連の事を教えてあげようという気持ちもあって、高頻度で日本関連の話をしたものだが、そういう訳である時からばっさりやめた。彼らから聞かれた時だけ、日本関連の話をするようになった。
何も話す事が思いつかない時ならいざ知らず、会えば日本関連の話ばかりされれば、煙たがられるのも無理はない。何て面白くない奴と思われたかもしれない。私が逆の立場ならそう思ったかもしれない。
これからアメリカに来られる方に、アメリカ人に日本関連の話ばかりしないようにと言うわけではないが、こちらが思うほどアメリカ人は日本の話題にいつも食いついてくるわけではなく、やりすぎると煙たがられることもある、というのが身から出た経験である。
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私が住む周りには、日本からの駐在員の方がちらほらおられるが、彼らの多くとお話しすると、たいてい活動的な方が多いのに気づかされる。
先週はあそこに行って来た、今週末はあそこに行くなど、休みの日や祝日はほぼどこかに出歩かれる方が多い。普通のアメリカ人よりも、周辺地域や名所に詳しい駐在員も多いくらいだ。特に興味がなくても、ファンでなくても、話のネタとしてアメフト、メジャーリーグ、マイナーリーグ、ラクロス、アイスホッケーの試合等を見に行ったり、例え遠くでも世界遺産、国立公園、キャンプ、イベント、フェスティバル、名所史跡めぐり等に積極的に出かけられる方が目立つ。
会社の状況によるが、通常は駐在期間は3年と、必ず日本に帰る事が決定していると、それまでにアメリカ生活を堪能しようと、より行動的かつ活動的になる人も多い。観光の名所と聞けば、100マイル以上離れていても出かけたり、近隣の州へもどんどん出かける。永住していると、観光地や名所にはいずれ行ってみたいが今すぐ行く必要はないと、何もあせることはないが、駐在員とそのご家族の方からすれば、3年という限られた時間しかないので、できる限りの事をしておきたいといった、気持ちの持ち方がまず異なるのだろう。
ある駐在員の方は、日本から呼び寄せで一緒に住む妻が英語が全くだめで、友人もおらずいつも家にいるのはかわいそうなので、休みの日くらいは一緒に色々出かけて妻をリフレッシュさせてあげたいんです、と休みはごろごろ寝るだけだったという日本にいた頃とうって変わって、積極的に妻と休日を楽しもうと意識しておられた。異国の生活は色々大変かもしれないが、ぜひアメリカ生活を楽しんでいただきたいものだ。
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アメリカの祝日数は年に何日あるか?下に一覧でまとめてみる。
1月1日:New Year's day
1月第3月曜日:マーティンルーサーキングJr.誕生日
2月第3月曜日:ワシントン誕生日
5月最終月曜日:メモリアルデー
7月4日:独立記念日
9月第1月曜日:Labor Day
10月第2月曜日:コロンバスDay
11月11日:Veterans Day
11月最終木曜日:Thanksgiving Day
12月25日:クリスマス
とあり、計10日である。これは国が定めた連邦祝日で、他に州が定めたものや、会社、学校により多少異なるが、基本は年10日程度だ。日本のそれよりかなり少ない。
私の会社の場合、マーティンルーサーキングJr.誕生日、ワシントン誕生日、コロンバスDay、Veterans Dayは休みでない。その代わりに、独立記念日の翌日も休みにするなど、2連休もしくは土日が続けば4連休になることもある。
またこれら祝日の前後に有給休暇をとるのがやや慣例化していることもあり、祝日前後は社員の多くが休暇をとることがよくある。有給休暇日数を最小限に、かつ休みを最大限にするために祝日前後によく休む。たいてい1~2週間バケーションをとる人が多いが、時々1ヶ月休む人もいるので、あの人辞めたのかと思っていたら実は休暇だったということもある。学生も6月頃から夏休みに入り、9月までの間2ヶ月以上休みが続くこともよくある。
休日数だけで見ればアメリカは日本よりかなり少ないが、多くのアメリカ人は有給休暇を当然の権利としてどんどん消化するので、月曜や金曜に有給を使い、定期的に3連休かそれ以上休む人も周りで多い。学生の夏休みも日本のよりもさらに長い所もあり、年間でみれば差し引き同じくらいか、アメリカの方が休みが多くなるのかもしれない。
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日本に住んでいた頃、英語の勉強がてらに、よく外国風のバーや、スポーツバーに行った。そこにはたいてい外人がいた。外国に住むと、同胞や母国が恋しくなるのか、母国が感じられる場所には同胞が集まってくる。彼らを見るとそんな気がした。
私はアメリカに住んでいるが、当時そういったバーで感じたのと同じ気持ちになることがある。遠い異国に住み、周りに日本人がいるとなんとなく嬉しいし、知り合いになりたいと思う。日本から来られてまだ日が浅い方なら、何かお世話をしてあげればという気持ちになる。
ただ私の住む田舎という場所柄、日本を感じられる場所というものがほとんどない。神社仏閣はないし、居酒屋もない。日本人客がいれば何か話でもと思い日本食レストランに行っても、アメリカ人や中国人ばかりで肝心の日本人がいない。しかも店員やシェフは中国人である。中国系や韓国系の教会はちらほらあるが日本人による教会は周りにない。ここに行けば同胞である日本人がいる、という場所が回りにほとんどないのである。
世界で最も日本人移住者の多い国の一つであるアメリカなのだから、私の周辺にももう少し日本人がいると思うのだが、日本人の知り合いのほとんどは駐在員とそのご家族か、たまに留学でやってくる高校生くらいである。ニューヨークシティーまで行けば、相当数の日本人コミュニティーや、私の母校のニューヨーク支部があって同窓生とお会いできるなど楽しいかと思うが、遠いのでそれも実現できずにいる。今の田舎地域に移住する際にそれらは察しがついたが、更なる日本人の方がアメリカ特に田舎の小都市にも移住されると、いろいろな意味でもっと良くなり楽しくなると思う。
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学校で習いそのまま使える英単語や表現のほか、学校で習わなかったものもアメリカに住むと必要になる事もよくある。例えばこむら返り(cramp)、踊り場(Stair landing)、固定資産税(Property
tax)、(ドアなどの)ちょうつがい(Hinge)、といった頻度のものは、学校で習わなかったが日常生活でたまにだが使う時がある。そういった頻繁に使わないが必要になる言葉も覚え使いこなす必要がある。言い換えると日本で生活していて使っていた日本語の単語、表現は、アメリカで生活していても必要になる場面が出てくるので、それらがスッと英語で出てくればアメリカ生活に慣れてきたなと少し嬉しくなるものだが、スッと出てこない時のもどかしさは今も感じるものだ。
使用頻度がほぼゼロのものなら、1回きりだし相手もその英単語を知らない可能性もあり、その単語を覚えず連想ゲームのようにそのものを別表現で表しても済むものだが、使う頻度がたまにでもあればその単語表現を覚えておきたい(例えばこむら返りはたまに起こるので、その英単語が分からずいつも足が痛い、変な感じがする、など連想ゲームのように英語で表すのは話し手聞き手双方とも面倒だからだ)。
それには普段からこれは英語でどういうのかと、必要になったその場その場で覚えていくのが一番効率的だった。一方で学校で習わなかったし、アメリカの日常生活でもまず使わないもの、例えば窒素化合物、などは覚える必要がないので自分の語彙として増えないし、習ったとしてもそのこと自体忘れてしまうものだ。こうして不要な英単語は自然と忘れ、日々の生活で必要なものは新規追加で都度覚え、よりふさわしい表現に出くわせばその場で上書き保存、のような繰り返しで今の私の英語力があり、それの積み重ねが英語への自信やアメリカ生活に馴染んできていると思える理由の1つにつながったなのかもしれない。
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日本人が海外旅行をする際、航空券とホテルのみを予約する場合もあるが、同様に多いのが添乗員とのツアーだ。ヨーロッパなどの文化遺産を巡ったり、数国を同時に訪れたりする際は、添乗員ツアーが未だ多い気がする。リサーチパネルによると、添乗員がいるツアーといないツアーのどちらを選ぶかの問いに、50.9%が添乗員とのツアーを選んだという。
私も昔日本にいた頃、ヨーロッパ5カ国周遊ツアーに母と参加したが、20人程度の参加者と添乗員と共に文化遺跡などを観光した。確かに添乗員がいると便利であった。ホテルのチェックイン/アウト、移動の手配、
出入国手続き、人気のレストランやショッピングなど、海外旅行に伴う語学、現地の知識、トラブルなどの煩わしさを全て引き受けてくれる。その国に初めて訪れ、かつ日本語しか話せない人にとっては添乗員は大変心強い存在となる。
一方で、アメリカ人が海外旅行に行く際、そのほとんどが個人旅行で、添乗員を連れ添うのはあまり多くない。アメリカの多くの旅行サイトを見ても、航空券とホテル等を予約するだけのものがほとんどだ。妻の叔母は、昔添乗員として世界中を旅し、毎年妻の誕生日やクリスマスなどには滞在先の国からプレゼントを贈ってくれたようだが、徐々に仕事の需要が減り退職し、今はオレゴンで牧場経営に職を代えている。
英語が話せれば世界中のほとんどでそれなりに滞在できる。またアメリカ人に多いパターンは、終始添乗員をつけるのではなく、訪れる各種史跡や美術館などにいる英語話者によるガイドを、追加料金で単発でつけたり、オーディオによるガイドをレンタルしたりする。アメリカ人には旅行で終始行動を共にする添乗員が必ずしも必要でないかもしれない。日本人のように旅行中のスケジュールをガチガチに詰め込むというよりは、行くところを絞り、残りは自由でのんびりする、というような価値観がアメリカ人にはありそうで、また日本人ほど団体行動に安堵感を感じるのではなく、むしろ行動の自由を制限される煩わしさのほうが多いと感じるからかもしれない。
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アメリカ人には多くのゲイ、レズビアンがいる。アメリカの歌手や司会者など、芸能人にも多い。妻は以前女性と付き合っていたし、妻の弟は今もゲイだ。またNYの田舎に住んでいても周りの友人にもちらほらいる。以前住んでいた家を売った際、その買い手はゲイのカップルだった。
印象では彼らに対する周りの目はそれほど冷たくない。心では蔑む人もいるかもしれないが、個人の自由と割り切っているような感じだ。ストレートである私は、個人的には初めてゲイの人と会う際は一瞬警戒に似た気持ちになることもあるが、そういうものだと普通に接する。同性を愛するという事以外、一般人と同じだ。
彼らの普段の生活や性生活について、こちらから聞くことはほとんどしないようにしている。嫌がるかもしれないし、宗教のように個人的な事なので、向こうから話してこない限り半ばタブーのように私は意識している。
同姓婚を認める州も次第に増えてきている。妻の友人のレズビアン二人は法的にも夫婦として生活している。そして当然だが子供ができないので、体外受精をして子を授かろうと病院に通っている。しかし彼女達曰くそれを一回行うのは数千ドルかかり、費用と時間がかなりかかるため、私に精子を提供してくれないかと雑談している時に言われた事もある。
エゴかもしれないが、いずれ孫の顔を見てみたいので、自分の子供達にはストレートでいて欲しいと願っている。
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私はしばしばガレージセールに行く。アメリカではたいてい毎週金曜か土曜日に至る所で行われている。個人が自宅の庭に並べるもの、同じ日に近所の数軒が一緒にまとめて庭先で売り出すものの他、コミュニティーセンターや学校、教会で行われるものなどさらに規模が大きいものもある。入場料などはないので気軽に行ける。
ガレージセールで売り出す金額は、10セントのものや数百ドルする豪華なものまでいろいろだ。品物は、衣類、雑貨、本、食器、電気製品、
インテリア品、寝具、おもちゃ、クリスマスなどの季節用イベント品、ゴルフクラブやバットなどのスポーツ用品など、実に様々売られる。近所を車で運転すれば、電信柱などに日時、住所を記したガレージセールの看板をよく見かける。また新聞のコミュニティー欄やCraigslistなどのウェブサイトでもガレージセールの情報が簡単に分かる。近くを通った時や、買い物などの帰りに、少し時間があるし見てみようかと、ふらっとこうしたセールに顔を出す。
何か特別に欲しいものがあるわけでなくても、あればより便利なものや、潜在的に欲しいと思っていたがそれが何だったか忘れてしまっていたようなもの、また思わぬ宝物に出くわすことがある。
中にはまれであるが、終了1時間前頃から、主催者がスーパーのビニール袋を大量に用意して、そこに詰め放題で一袋$1になることもある。そうなると実質タダのようなもので、私の場合、既に持っている物やあえて買う必要のないものまで買物の対象になり、衝動買いしてしまう事がある。家にあるのになぜ買うのよ、と妻はいつも言うが、わらしべ長者の例を出し、より質の良い物や便利なものにグレードアップできそうな物なら買って、既に持っている物は人にあげたり教会にある専用の箱に入れて寄付するなどしている。
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