私が住むNY北部は、冬になると雪がよく降る。一晩で50, 60センチ降ることもあり、せっせと雪かきをしないと車が出せないほどで、11月頃から3月頃まで憂鬱な期間が続く。通勤、通学と言えば、電車がないため車になるが、朝夕のこの車の運転が怖いほどだ。雪がすごいので、運転はかなり注意が必要で、前が見づらく、スリップしやすい。こちらが気をつけていても、周りの車がスリップして当たってくる恐れも大いにある。
雪国だから、雪道の運転は慣れているとは限らない。雪の降る朝、車を運転すれば、1日1台ペースで、事故車を見ることができる。高速道路の脇に突っ込んだ車や、横転している車、スリップして接触事故を起こしている車などを頻繁に見ることができ、そのおかげで渋滞がよく発生する。かなりの年数をここで過ごす私も、未だにこの時期の運転は怖い。
状況によっては、(ワイパーフル回転でも)前が見えなかったり、ブレーキをかけても止まらなかったり、ほんの少しだけハンドルを切ったつもりでもスリップして車がくるっと一回転してしまうこともある。雪による何十台もの玉突き事故や、子供を乗せたスクールバスが横転してけが人が出た、というニュースなどが毎年のように出る。
日本から駐在員として来られる方は、たいていこの雪に戸惑われる。そして交差点を曲がる際は、あせらずに、ハンドルを急に切らずゆっくりと切った方がいいですよ、とアドバイスする。それはまるで熱湯が満タンに入ったコップを片手で持ったまま曲がるようなほど、ゆっくり右左折したほうがいいくらいの豪雪日もある。左ハンドル、右車線走行だけでなく、この豪雪となれば、それこそ必死で、えらい所に赴任したものだ、とこぼす方もおられる。私は昔ハワイに住んでいただけに、指折り数えるようにいつも冬が終わるのを切望する気持ちは大変強いものがある。
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アメリカ人が作る弁当は、正直言って貧相だ。ちゃっちいというか、簡単で、日本の奥様方が作る芸術品に近いデコレーション弁当に比べれば、天と地のほどだ。私の妻も、まれに作ってくれるが、典型的なアメリカ人の弁当である。もちろん、作ってくれることに対しては大変感謝しているわけだが、日本で私の母親がよく作ってくれたような、数品目、時に10品目ほどある彩り豊かで栄養ある弁当を食べ育っただけに、アメリカの弁当はなんじゃこれは?と言うほどの質素ぶりだ。
例えば、ジャムだけのサンドイッチが2枚だけとか、りんごそのまま1個だけとか、小指ほどの小さい人参数本と、ヨーグルト1個だけとか、シリアルバーやチョコレートバー2, 3本だけとか、バナナ2本だけとか、昨日の夕食の残りを詰め込んだだけとか、冷凍スライスピザ2片だけとか、ポテトチッブス袋ごと1個だけとか、大変質素な「弁当」を作る人も結構いる。丁寧な弁当を作る人もいるものの、これらは金がないから、というよりは、弁当とはそういうものだ、と思われている節がある。
なおドリンクはペットボトルに入った水か、ペプシかマウンテンデュー等の甘ったるいものが多い。これら弁当の準備は1, 2分程度でできるものが多く、子供の健康を考え手間暇かけた日本の芸術弁当とはレベルが違う。
ハワイにいた頃は、日系のスーパーなどで買える弁当は日本のそれとよく似ていたが、今住んでいるNY北部では、スーパーに弁当らしきものはあまりない。日本にあるような惣菜コーナー自体ない場合が多く、なんとか弁当としてそのまま買えそうなものは、小さい人参、セロリ、ミニトマトがいくつかとディッピングソースが入っているパックのものや、2, 3種類の味が選べるクラッカーセット程度だ。日本のそれと比べた際、弁当の中身だけでなく、それでまかり通っている彼らの弁当に対する価値観にも驚く。
栄養豊富で、見栄えも味も良い日本の弁当は、世界に誇るべき芸術品ではないかと、アメリカ永住しながらひしひしと感じるのである。
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アメリカで永住する人と話をすると、時々だが違和感を感じる瞬間がある。それは、日本語と英語がかなりミックスされた会話がしばしば行われるためである。例えば、それをMake sureして、とかYesです、とかMe tooです、とかSo
what?ですよ、とかConfirmする必要がある、とかInterestingですねぇ、などと英語日本語をミックスして話す人がいる。日本に住む日本人でもこうした類はあるかもしれないが、(確認、と言わずConfirmと言う様な)それ相応の日本語の単語があるにもかかわらず英語を使ってさらっと表現してしまう。要は英語でその表現を言う方が楽で、スッと口から出てくる。聞き手も同じくアメリカ永住者ならば、普段からそれは英語で言うほうが多いということはあうんで分かるだろう、と言わんばかりに、ミックスされる頻度は高まるほどだ。
突き詰めると、話が分かればいいのだが、なんとなく違和感はやはり感じる。日本人同士で話すなら、CDはCDだが、確認はやはり確認と言う単語であって、Confirmでないわけで(ちゃんと言えば
Confirmationだが)、日本語を話すモードになっている頭に水を差すようで、二言語の行き来を余分にする労力を強いられているような気もしないでもない。英語のみで言ってもらったほうが楽なほどの時もある。
しかしかく言う私も、アメリカ人と英語で会話する時間が多いため、普段から空港と言うよりはAirportと言う頻度のほうが多いので、日本人と話をする際は喉までAirportと出かかっているのを空港と言い換えるような、直前切り替え作業をすることもある。正直、面倒臭い気がしないでもない(それは尊敬語謙譲語を瞬時に使い分けるような感覚に似ている)。
口から出かかっているのをそのまま言うのは楽だし、相手が分かればそのまま出してもいい気もする。そう割り切ったアメリカ永住者の人々(日本人男性に多い気がする)が、ミックスされた会話をするのかもしれない。個人的には、英語動詞が日本語名詞化するなど不細工な使い方をするほうがより違和感を感じるので、直前切り変え作業が面倒臭くても、日本人そして自分の子供達には出来る限り綺麗な日本語のみで話すようにしている。
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私はガレージセールが大好きだ。日本では珍しいが、アメリカでは特に週末、至る所でガレージセールが開かれる。個人が家の軒先で行うもの、教会や学校が建物内で行うもの、近所数軒が同時に行うものなど、天気のよい日は多くの人々が行っている。衣類、日用品、家具、雑貨、家事用品、家電、おもちゃ、本、アウトドア品などが陳列され、大変安く、言い値でより値下げすることもある。また基本は中古であるが、使ってもいない新品や、思わぬお宝に出くわすことがある。
私はその中でも、バッグセールが好きで、ほぼ毎日、近くで開催しないかウェブサイトやフリーペーパーなどでチェックする。バッグセールとは、
主催者がスーパーのビニール袋や紙袋を大量に用意し、全て詰め放題で3ドルなどと、時間限定で行うガレージセールのことだ。在庫一掃とばかりに、品物を一
気にさばきたい時にしばしば行われる。
特に教会などで、体育館ほどの広さの敷地でバッグセールが時々行われるが、私は都合が合う限りそれらに行くことが多い。なぜなら数え切れないほどの物全てが限りなくタダになるからだ。ジャンクばかりではないのか、と思う人もいるだろうが、確かにジャンクもある。しかし数百、数千点の品物全てが、袋に詰め放題で数ドルなので、既に自分の家にあるものでも、より品質の良いものがあれば袋に入れることがあるし、潜在的に欲しいと思っていたがそれが何か忘れていたものや、発想もなかった興味深いものやお宝、今すぐ必要にならないが今後必要になるもの、お金を出して買うほどでもないがほぼタダだしまあ試しになら、というものなど、気軽に、限りなく安く買え、自分の家の所持品が潤い、時にグレードアップするようだ。
おそらく無料やプレゼント、タダで譲り受けるの次に、最も安く物品を購入できる手段の一つではないかと思う。別に生活に困っているわけでも、特別欲しいものがあるわけでもないが、行けば楽しい。お宝を見つけた時は、嬉しいし、まるで狩猟的本能を満たせたような気にもなる。さらに出費は数ドルのみだから大したこともない。
バッグセールに行くのは、有意義な暇つぶしと言うか、趣味の領域になってしまっている。あまりにバッグセールに照準を合わせて出かけているので、あなたはバッグセールハンターね、などと妻に冷やかされることもある。
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外国に長く住んでいると、逆カルチャーショックを受けることがある。久々に母国に里帰りすると、現在住む外国の価値観習慣に適応してしまっているため、母国のそれがまるで異文化に接しているような違和感を感じてしまう。生まれ育った母国の、その価値観習慣は理解できるはずだが、知らぬうちに現在在住する国のそれが自分の中で第一義となってしまい、新鮮さを覚え、時に理解に苦しみ、自分は一体何人なのだろうと、アイデンティティーが揺らぎ、心に不安を感じる人もいるかもしれない。
私も数年ぶりに日本に里帰りすることがあるが、例えば日本に到着するや否や、空港内で走る日本人をちらほら目にして驚き
(アメリカでは滅多に建物内で走る人を見ない)、二列で順番待ちをしていると、流れが遅い列にいた日本人が、並べというから並んでいるのに、なぜ後から来た人が先にいけるの、どういうつもり?と係員にクレームを出している(アメリカではそういう光景をあまり見ないので、ああ日本に帰ってきたと実感し始める)。
また親が小さい子供を叱り、頭を叩いているのを見かける(アメリカでは目撃者に通報されて逮捕される可能性がある)。レストランでテーブルの上にあるボタンを押せば店員が来てくれる(アメリカではそんな店はほとんどない)。スーパーに行けば店内音楽が流れやけににぎやかで(アメリカではたいてい静かだ)、レジでは一点別に398円が一点、等と店員が読み上げる(アメリカではそんなことはしない)、軽四やスクーターが多くワオ!と思う(私の済む田舎では小型車をあまり見ないので)、ゴミの区別が細かく、決まった時間外に捨てると誰かが怒ってくる(私の住む所は燃えるごみとビン、カンの区別しかなく、ゴミの日前日夜から家の前に置いてもよい)。
4,5メートルしかない道幅でも、対向車と難なくすれ違える運転能力の高さ(アメリカはたいてい道幅が広いので、私はもう恐怖さえ感じる)、預金を引き出して数百円手数料を取られる(ただ呆れる)、店の店員はたいていにこやかだが、それ以外のサービス業の運転手やその他係員等は比較的ため口で横柄で、それが地域ならではの親密さを出すやり方かもしれぬが、人の二面性を見て怖くなった(アメリカでは公私でそんな豹変せずたいてい自然体なので)、買物や娯楽で来たのに駐車料金を取られる(アメリカではまずない)、冬はマスクする人が大変多いこと(アメリカではほぼゼロなので)、人を感知して動くエアコンなどアメリカより数歩先行く家電を見る、など。
日本にいた頃はそれらは当然のこととして分かっていたが、久方ぶりだとそんな事忘れていたので驚く。そして違いに気づくたび、それら日本の価値観習慣を当然のように理解し過ごしていた当時の私に出会えた感覚というか、開くきっかけがなかった記憶の引き出しから昔の自分と再会できたような感覚というか、デジャブというか、不思議な感覚を覚えることがある。要は慣れなので、生活の本拠があるアメリカに戻ると快適に感じるし、良くも悪くもそういう違いが観光名所巡りと同じくらいの思い出となるのである。
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夫婦仲や恋人仲がうまくいっておらず喧嘩ばかりなのでどうすればいいですか?という人生相談的なサイトを先日たまたま目にして、それに対し、ありがとう、といろんな場面で言うといいですよ、と回答されていた。
私もそう思う。優しい言葉で接してほしいのではなく、優しい心で接してほしいのだ、と言われるが、その環境作りとして、また相手を気遣う魔法の言葉のうち、最も簡単で効果のある一つが、ありがとう、だと思う。
日本にいた頃は、今ほどありがとうと言わなかった(言えなかった)。アメリカに住み始めてから、およそ劇的にありがとう(Thank
you)を多用するようになったが、それは周りの人々が日常的にほんの小さなことにも自然にThank
youと言っている環境に感化されたからだと思う。
ドアを開けて待ってくれた時、物を取ってもらった時、買物でお金を支払う時、サービスを受けた時、電話を切る時、会話が終わる時、食べ終わった時作ってくれた妻に対して、来客者に対して、言った事をしてくれた子供に対して、など、基本相手が誰であっても自分に何かしてくれた時はすぐThank youと言う。
出先でも、自分はお金を払う客の立場だからと店員等との間に優劣を作って接するような発想はほとんどない。どんな立場状況でも、何かしてもらったら相手が誰であってもThank youと言う。日本にいた頃、スーパーやコンビニでは一言も話さず買い物を済ましていた気がするが、所変われば人変わるものだ。
Thank youと言うと、言った側言われた側とも気分がいい。言った側は、たとえ小さな事でも自分のためにわざわざ何かしてもらったわけで嬉しいし、気分が多少ほころぶ。言われたほうも嬉しいからまたしてあげようという気になる。そういう瞬間が一日に何十回とある。勇気を出しての一言ではなく、それは投げた石が水の波紋を四方に広げるような感覚で、相当数のアメリカ人が主体的日常的に行っている。
ありがとうというプラスの感情をこちらから言い続ければ、自分もまた何かしたくなるという相乗効果で、相手を認め気遣いあう素地が出来てくる。またありがとうと言うと相手を認め自分の立場が下になり下がり、あたかもこちらが負けのような発想もアメリカではほとんどなく、むしろ逆で積極的に言うべきであるほどだ。
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