アメリカの一般家庭で温水を使う際、やや不便に感じる瞬間がある。それは、使いすぎると温水が出なくなる時だ。たいていの家には、洗濯機乾燥機やボイラーヒーターの近くに、温水タンクもある。その温水タンクは、ドラム缶に似たタンクで、高さ1メートルから2メートル程度あるものもある。ガスで中の水を温水に換えて貯める。だが家族の者が連続して、タンクの容量を超えるスピードで風呂等を使用すると、ぬるい温水になっていき、しまいには冷水とほぼ変わらない温度の水しか出なくなる。
そのため誰かが風呂に入った後は、連続して使用せず、しばらく経ってから次の者が使用する。温水タンクが湯を沸かしている時は、ゴーッと音がする。その音を頼りに、タンク一杯まで温水が溜まるまでは風呂に入るのを控える。
アメリカで暮らしてきて、見てきた全ての家でこの温水タンク使用である。オーストラリア留学時のホームステイ先の家でも、同じくタンク式だった。そんな事も知らず、またバスタブもないので暖まるためシャワーをガンガン使っていたが、やがて冷水に変わったので、シャワー壊れてたよと言うと、タンク式だからあまり使うな、と言われたのを覚えている。カリフォルニア等日本人が多い地域等では、日本人が好みそうな瞬間湯沸かし器を扱っている業者があるが、私が住む地域では見た事も聞いた事もない。いつか瞬間式に変えたいものだ。
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私が住むアメリカの家の、その隣人たちを見てよく思うのは、彼らは日曜大工が実に上手である。家のペンキ塗り、電気配線の修理、水道配管の修理、私道のアスファルト、コンクリートの塗装、木や花の園芸、自動車修理、機械いじり、屋根の葺き替え、壁の塗り替えなどを自分で行う人が多い。隣の中年男性は、増築をするにあたり、業者を一人減らして自分が参加し、現場監督のように作業を行っていた。新母屋の基礎工事や、骨組み、柱の建てつけや配線工事まで、大工に劣らぬほどの知識の持ち主であった。
そうしたアメリカ人男性におよそ共通するのは、日曜大工が大きな趣味の領域を占めている点で、楽しそうである。ホームセンター等で買ってくるのか、様々な道具や機械を揃えていて、まるでおもちゃで遊ぶかのように作業を楽しんでいる様さえある。日曜大工ができない男性は格好が悪い、というような雰囲気をよく感じ、隣人や妻から「男のくせにそんな事もできないのか」と思われている気さえする。
日本だと、週末は仕事疲れの体を休めるために寝だめしたりごろごろしたりするかもしれないし、幼い頃から父親や祖父、叔父などからそうした日曜大工の様々なノウハウを、アメリカでのそれほど教えてもらえなかった環境にあったのも原因しているかもしれない。それは小さな庭や、マンションで暮らす人が多いという日本の住宅事情も関連していると思うが、私も小さい頃から父等から日曜大工を教えてもらった記憶は一切ない。両親は車自体持っていなかったのもあるし、洗濯物を干せばそれで一杯、というほどの庭しかなかったのも、私がこの年でも素人同然の知識しかない原因の一つと思う。
そういうわけで、ここアメリカで暮らすと、隣人たちは家の修理工事を自分でどんどんしたり、美しい景観をもつ庭を自分で造ったり、様々な工具や機械を揃えていたりする事が多いので、私だけ取り残され浮いている感じさえする。水が詰まったり電気のスイッチが入らなくなったりすれば、お金を出して業者を呼ぶ。妻も私と同じくそういう事には全く無知なので、業者に電話する時も「そんなくらい自分でできると思うが。。」などと言われながらも来てもらう。そしてほんの5分くらいで修理が終わり、50ドルです、等と言われると、くっそー、と思うが、どうも強い動機が湧かないせいか、未だ素人の域を出ない情けない状態が続いている。
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英語を話す際、特にあまり経験がない人ほど、頭の中で日本語でまず一文を作り、それを完全な英語の一文に作り上げてから言おうとする人がいる。そのため会話のキャッチボールが遅くなり、会話に変な間ができたり相手がいらいらすることがある。すっすと英語が口から出てこないのは、会話の経験をどれだけ積んだかにかなり比例するので、英会話の絶対量が少なかったり、かなりの恥ずかしがりだったり、完璧主義だったりすると、英語で会話すること自体億劫になり負のスパイラルになりかねない。
そこで私がよくやるのは、リズムを取る言葉を会話の節々に入れることだ。日本語で言うところの、あー、えっと、要は、そうすると、そういうわけで、まとめると、はっきり言うと、などである。例え「要は」、と言っても話をまとめ始めるわけでなく、間をつないでこちらの会話をよりスムーズにするためリズムを取るためだけに用いる場合がある。
英語でもそういう言葉は多い。例えば、Well, I mean, I think that, right, so, that means, actually, and then, in other words, you know, you know what I mean, などである。実際ネイティブもこれらの単語を単なるリズム取りとして、スムーズに会話を進めるために用いる事が大変多い。
また、単語ではなく、例えばThat is ah-, Do you think the-, well-, I mean the-, など、アー、エー、ウーととにかく声に出して、まだ会話途中であるサインを示し、その間に考えるやり方も多い。会話が終わっていなく、考え中だということで、沈黙が続き会話のキャッチボールができないよりはましである。
さらに日本語で一文で言えるところを、英語では三文、四文と単純明快な短文を言うこともよくある。必ず英語でも完全な一文で言う必要などなく、小出しで意味を伝え続け、合わせ技一本、のようなやり方で、よりスムーズに会話をし間をつなげることもある。
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海外永住が長くなると、日本の番組を見る際、びっくりするような瞬間がある。番組の司会者がボードに張って隠してある紙をいちいちめくって説明している、というのは以前書いたが、その他に、とにかく視聴者を怖がらせたり、不安がらせるような番組が多い気がしてならない。
ある情報番組では、多くの人が行っているようなこの生活習慣を続けていれば、死に至る事があります、とか、死にます!とか言って、視聴者を怖がらせ、もっと見なければと煽る。
普通の番組でも、ニュースでも、お化けや怨霊でも出そうなおどろおどろしい音楽を流し、怖がらせ、恐怖や不安で視聴者を見続けさせようとしているかのようだ。プライバシー保護のため音声を変えるのはよいにしても、その変えた声があまりにも低く、いかにも凶悪な事をしてきたかのような感じを抱かせ、内容により恐怖感を抱かせる。
時に気が滅入り、視聴者としてはその内容に関して気をつけなければならないな、と思わせられるが、番組で言う実際死んだり、嫌な事が自分の身に降り掛かる可能性は普段の日常生活で相当低いと思われ、数日後にはそれが何だったかは忘れるが心配させられ不安にさせられた感情は覚えているという事がある。今までの所、こういうのに似た気持ちを抱いたアメリカでの番組はほとんどないので、バラエティ番組を除き、日本のテレビを見るイコール疲れた、というのがだいたい当てはまる。
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久々に日本に帰ると、アメリカとの違いで感じるものの1つは、若者の数である。週末に、駅やレストラン、ショッピングモールに行っても、アメリカで感じるほど頻繁に子供を見かけなかった気がした。一回の外出で、子供を見る事ができるものの、おおかた大人である。その場所も、駅や店などの公共機関なら、子供もかなり見られると思うが、ちらほらだった。子供がおらず高齢者ばかりの住宅街もよく見かけた。アメリカではどこに行っても子供がいる、という程、もっと見かける気がしてならない。
そこで気になったので、国連の世界の推計人口データを見ると、2010年のアメリカで、10歳未満と10代でともに約2000万人、30歳代で約1900万人、40歳代で約2000万人、50歳代で約2200万人、60歳代で約1600万人と、どの年代も比較的バランスがよく分布している。
一方2012年の日本では、10歳未満の約420万人、10歳代で約580万人、20歳代で約620万人、30歳代で約780万人、40歳代では940万人になり、50歳代では約760万人と10年ごとにおよそ100万人ずつ人口が増え、60歳代の人口は約1000人以上いる。日本は対照的な右肩上がりである。
経済学者ではないが、年齢別人口に偏りがあると経済活動や社会施策、政治家の政策にも色々と都合不都合が生じると言われる。不足の人口には移民受入せよという世論もあるが、反対の世論も日本にはある。海外から見ると、日本の人口構成はかなり特徴的に映る。海外永住する者としても、日本に対して何かと気にかけている。いろいろな意味でぜひより元気な日本になって欲しいと思う。
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アメリカでは、例えば野球、バレエ、自転車、空手などの競技を行う際、優勝、準優勝以外でも比較的トロフィーをよくもらう。3位でももらうし、5位や参加賞的なものでもトロフィーやメダルのような小さなものをもらえる場合がある。子供が学生の時はマウンテンバイクに乗り、よく自転車競技に出ていて、何個もトロフィーをもらってきた。優勝でなくとも、3位でもトロフィーをもらってきたり、参加賞的に小さなメダルやカップをもらったこともある。
自分の年少時代を振り返ると、このようにトロフィーをもらったことは一度もなかった。もしトロフィーや賞状、メダルなどをもらっていれば、きっと誇りに思いとても喜んだと思う。例えその競技の優劣で劣っていたとしても、競技を行う当局から何かもらえれば、とても嬉しいと思ったろうし、よりやる気が出たかもしれない。優勝は出来なくとも、その「頑張り」を称えてもらったような気分になり、よし次こそはというやる気が湧いてくるかも知れぬ。何も貰えず、称えてもらった気にもならなければ、自分は向いてないかもとやる気が失せて辞めてしまい、他の何かに興味が移ってしまうかもしれないが、権威ある協会から何かを貰った以上、少なくとも今までの努力は無駄ではなかったと自分を勇気付けることも出来、次はより良いトロフィーが欲しい、と俄然やる気が湧いてくる、と息子は以前言った。
そういえば、部活や習い事をやっている子供の家にお邪魔すると、その子の部屋にはトロフィーがいくつも飾ってあったりする。それを眺めると、自分は何のとりえもない意味のない人間ではなくて、一生懸命頑張って称えてもらえるほどの意味のある人間なんだ、と自信がつき、今後の人生も応援してくれるような存在になっているのかもしれない。
ほとんど何ももらった事がない私にしてみれば魅力的に見える一方、小さな頃からもらい続けた妻にしてみれば、誰でもトロフィーや何かをもらえるという習慣は止めるべきで、多くのアメリカ人もそう言うらしい。理由は、もし大して頑張らなくとも、とにかくトロフィーをもらい続けると、努力をろくにせずもらう事だけを望む根性のない人間になりかねず、なぜ試験をパスできないのだ、なぜ出世、昇格できないのだなどと、本質を正しく見れない人間へと助長させている、という。要は適度なさじ加減か。そして本人が何かに一生懸命取組み、その頑張りを応援する周りの配慮か。
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