トロフィーをよくもらうアメリカ人
自分の年少時代を振り返ると、このようにトロフィーをもらったことは一度もなかった。もしトロフィーや賞状、メダルなどをもらっていれば、きっと誇りに思いとても喜んだと思う。例えその競技の優劣で劣っていたとしても、競技を行う当局から何かもらえれば、とても嬉しいと思ったろうし、よりやる気が出たかもしれない。優勝は出来なくとも、その「頑張り」を称えてもらったような気分になり、よし次こそはというやる気が湧いてくるかも知れぬ。何も貰えず、称えてもらった気にもならなければ、自分は向いてないかもとやる気が失せて辞めてしまい、他の何かに興味が移ってしまうかもしれないが、権威ある協会から何かを貰った以上、少なくとも今までの努力は無駄ではなかったと自分を勇気付けることも出来、次はより良いトロフィーが欲しい、と俄然やる気が湧いてくる、と息子は以前言った。
そういえば、部活や習い事をやっている子供の家にお邪魔すると、その子の部屋にはトロフィーがいくつも飾ってあったりする。それを眺めると、自分は何のとりえもない意味のない人間ではなくて、一生懸命頑張って称えてもらえるほどの意味のある人間なんだ、と自信がつき、今後の人生も応援してくれるような存在になっているのかもしれない。
ほとんど何ももらった事がない私にしてみれば魅力的に見える一方、小さな頃からもらい続けた妻にしてみれば、誰でもトロフィーや何かをもらえるという習慣は止めるべきで、多くのアメリカ人もそう言うらしい。理由は、もし大して頑張らなくとも、とにかくトロフィーをもらい続けると、努力をろくにせずもらう事だけを望む根性のない人間になりかねず、なぜ試験をパスできないのだ、なぜ出世、昇格できないのだなどと、本質を正しく見れない人間へと助長させている、という。要は適度なさじ加減か。そして本人が何かに一生懸命取組み、その頑張りを応援する周りの配慮か。